作品をつくる意思と技術の区別

「あなたのやっているような作品は、コンピュータにもできますよ」と言われた作家が、「もしコンピュータが自分と同じような作品を作ったのなら、じゃあ自分は次からそれと違うのを作るよ」と答えることがある。

確かに、自分と全く同じようなタイプの作品を作るようにコンピュータがプログラムされて自分と全く同じような作品をコンピュータが作るようになったのなら、じゃあ自分はそれとは違うことをやる、という発想も分かる。それはそれで、一つの回答ではあると思うけれど私は、そういう問題以前に、たとえコンピュータがその作家と全く同じものを技術的に作れたとしても、それはその作家本人が作るのとは全然意味が違うから、全く別のこととしか思えない。ある作家の作品と同じものが機械で作れたとしても、そのことでその作家の意義がなくなるとは全く思えない。それらは全然別のことだと思う。

近年、コンピュータに特定の作家の特徴を学習させてそれと同じような作品を生成させる技術が発達し、それに伴って「同じようなものが作れるのなら作家の意義が脅かされるのでは?」みたいな議論を耳にするようになった。私にはそれがさっぱり理解できない。コンピュータで技術的に同じことができるからと言って、どうしてそのことで作家の存在意義が危うくなるという発想に繋がるのか全く分からないのだ。

例えば私は音楽を作っているのだけれど、機械でなくたって、現時点で既に自分より音楽を作る技術が高い人なんていくらでもいる。技術的には、音楽を作るための基礎的な知識と、私の作品を作るに当たって必要なスキルさえ習得すれば、そして私の作品の特徴を分析しそれを理解しさえすれば、基本的には誰だって自分と似たようなことができると思う。機械にも、そういうのを作るようにプログラムさえすれば、私のと似たようなのが自動生成できると思うよ。だからと言って自分が作ることに意味が無いのかといったら、全然そういうことにはならない。

だって、他の人が「自分と同じやり方を習得して同じになるように作る」というのと、「本当にそういう作品を作りたくて作る」というのは全然意味が違うもの。ある作品と同じようなものを機械が作る場合は、そういう作品を作るように設定されて作ることになるから、機械自身がそれをやりたくてやるのではないし、それは人間でも同じ。他人の作品と全く同じようなものを作る技術を習得して、その作品と同じようなものを作れるようになったとしても、そういう場合その作品は本人の作品とは言い難いでしょ。それは習作みたいなものでしかないもの。

「それを作る技術がある」ということと「それを作ろうという意思がある」というのは全然別なことで、それを混同してはいけないよ。「ある作品を制作するに当たって必要な技術を持っている」というのと、「その作品を発想するに当たって必要な思想を持っている」というのは全然別なことだよ。

作品を作るための「技術」があることと、その作品を作るに至った「思想」があることは違うよ。「技術的にこういう作品を作れます」というのと、「その作品を作ろうと思った」というのは全然違うよ。作品を作る「手段」があることと、作品を作る「理由」があることは全然違うことだよ。そこを一緒くたに考えてはダメだよね。

例えば、河原温さんがもし、日付をキャンバスに描いた「デイト・ペインティング」について、「そんなことは機械でも出来るよ」と言われたって、何とも思わないと思う。ご本人は亡くなられているけれど、もし生前にそんなことを言われたとしても、何とも思わなかったと思うよ。「だから何?」という感じだと思う。だって、絵を描く技術を見せている作品ではないから。そんなことは分かりきった上でやっているのだから。

コンセプチュアルな度合いが強い作品には、技術的には機械でもできるようなのが沢山あると思うよ。だってコンセプトのほうが作品なのだから、技術的にはべつに、他の人でも機械でもできるようなことでも全然構わないもの。そういう極度にコンセプチュアルな作品なら、当然ながら、べつに作品の「技術」に意義があるわけではないもの。「発想」のほうに意義があるものだもの。あと、特別な技術を要さない類の作品はそうだと思うよ。技術的には誰にでもできるようなアートとかね。

芸術作品の意義って、技術だけにあるものじゃないでしょ?単に、「技術的にこんなスゴいことができます」っていう自慢をするためにあるものじゃないでしょ?

技術は、作る為に必要な「手段」でしょ?技術だけが作家と同じようにあればそれでその作家の存在意義はなくなるのかと言ったら全然そんな問題じゃないでしょ。その作家がその作家の意思で、「こういう作品を作りたい」もしくは「こういう作品を作るべきだ」と思って、その作家の考えや感性のもとに作られた作品であることに意義があるのでしょ。技術的に同じことができれば良いのだったら、機械でとっくに同じことができる芸術なんていっぱいあるよ。ただスーパーリアリズムとかマニエリスムとか、技術をウリにするタイプの芸術ももちろんあるし、そういうものも素晴らしいけれど、それは多種多様な芸術があるなかの一つのタイプに過ぎないから。他に、技術を見せるために作っているわけじゃないタイプの芸術もたくさんあるから。

ジョン・ケージさんの、作曲者の側が音を一切自分からは決めないで、上演の際も演奏者は意図的な音を出さないで、ただその場に鳴っている音にみんなで耳を傾けるなんていう作品は、機械でもできるどころか、誰がやったって技術的にはできるわけだよね。何も意図的な音を出さなければいいわけだから。まあ、機械でやるならただステージ上に機械かロボットでも置いておけばいいんじゃない?それで何もさせなければいいわけだから。それはそれで面白いかもね。いずれにしてもそういう類のものは何も技術を要さないから、当然、機械でも何でもできる。じゃあ、技術的に可能だからと言って、そういう作品を考えたケージさん自身に意義はなくなるのかと言ったら、全然そういうことではないよね。だってそれは、技術的にできるかできないかが問題なんじゃなくて、ケージさん本人が「そういうことをやろうと思った」ということ、「そういう発想に至る思想を持っていた」ということに意義があるのだから。そしてそういうことを「わざわざやった」ということに意義があるのだから。

マルセル・デュシャンさんのレディメイドの作品だって、既製品をどっかから持ってきて展示するだけなら誰だって、機械だってできることでしょ。何の技術も要らないのだから。でも、だからと言ってデュシャンさんの意義がないのかと言ったら、全然そんなことにはならないよね。だってそれは、作品の技術的な側面に意義があるのではなくて、「そういう作品を発表しようと思った」っていう彼の思想と行動に意義があるのだから。

草野心平さんの『冬眠』は「・」しか書いていない詩だけれど、それって機械でも容易に書けるでしょ。でも機械に「・」を書かせたところで、その「・」は、この作品を思い付いた彼の「発想」やそういう詩を書こうと思った彼の「意思」、あるいはそういうことをやるような「感性」から出てきたものではない。機械には「・」を書く理由がない。でも草野心平さんにはあったのでしょう。そして、その部分がこの作品の持つ意義のほとんどを占めていると思う。だって「・」なら誰にでも書けるのだから。難しい詩は書けなくても。だけれど、草野さん本人が発想したことに意義があるのであって、そうでなければ同じ作品とは言えない。

ここでは分かりやすいように極めてコンセプチュアルなことをやった作家を例に挙げたけれど、べつにここまでコンセプチュアルな作品じゃなくたってそうだと思うよ。機械で同じことが技術的にやれるからって、それが即座にそれを作る作家の存在意義を脅かすということにはならないよ。なんでそこを混同する必要があるのか分からない。だって今までだって、機械でも同じことが技術的にできる作品なんていっぱいあったのだから。だけれどそのことでそれを作った人の意義がなくなるなんてことはなかったもの。

べつに作家の皆さんは、技術だけで勝負しているんじゃないよ。むしろ美術作家にしても音楽家にしても、作品を作る技術はあって当たり前だから、それ以外の部分、つまり「なんでそういう作品を作っているのか」とか、作品のテーマとか問題意識とか、そういう作品に至る感性とか思想とか、そういうものの方に、作家の方々の個性が表れているよ。べつに技術的なことだけにその作家の意義が表れるのではないよ。当たり前じゃんね。

自分と同じだけの技術がある存在が現れたら自分の存在意義がなくなるなら、同等の技術を持っている作家のうち、一人だけにしか意義がないことになってしまうじゃない。あるいは自分より技術的に上回っている作家がいたら自分の存在意義がなくなるということになる。そんなことあるわけないじゃん。皆それぞれ、自分のテーマで、自分のスタイルで、自分の意思で作品を作っているのだから、技術的に同じことができたって、同じ思想のもとに同じ感性で同じ理由でやっているわけじゃないんだったら、それは全然別なものだもの。だからそういう人たちは、機械で同じことができたって、別にそれがその機械の意思でやったものでないのなら、全然ビクともしないと思うよ。

だって例えば、グレイ一色の絵って、何種類もあるんだよ。ほとんど白だけの絵も何人もの人がやってる。で、それは技術的には、絵の具でキャンバスをキレイに塗れる技術を持っているペインターのかたなら誰でもできると思う。じゃあ、そのうち一枚だけにしか意義がないのか、あるいは技術的に誰でも機械でもできるから意義がないのかと言ったら、全然そういうことではない。だって、たとえグレイだけの、見た目が似たような作品であっても、作っている人によって「なんでそんな作品を作ろうと思ったのか」が違うから。そういう作品に至った理由が違うから。思想が違うから。グレイでキャンバスを塗るということ自体は、技術的には他の人でもできるわけだから、そういう作品の場合は技術的なことよりも、「なんでそういうことをやろうと思ったのか」という意思の部分、思想の部分が作品の意義のほとんどを占めると思う。

だから、作品の意義は決してその作品の技術のみにあるのではなくて、それを作った作家本人の「意思」にあるんだよ。だからたとえ機械で同じことができたとしても、その機械が自らの意思で、そういう作品を作りたいと思ってやっているのでなければ、全然それは同じことではないのだよ。作品は、それを作る者自身が「これを作りたい」もしくは「これを作るべきだ」と思って自らの意思で作ったのでなければ、その人の作品とは言わないよ。だから機械で技術的に同じことが出来るというのと、本当にその作家本人がそれをやろうと思ってやったというのは、全然別なことなんだよ。



もし機械に自らの意思を持たせて、機械が自分の意思で自分の感性や思想を元に作品を作ったのなら、それは紛れもなくその機械自身の作品と言えるだろうけれど、果たしてそれが可能になったとしても、それをするのがその機械達にとって良いことなのかどうかは分からない。それは先のエッセイで書いた「ロボット倫理」に触れることだと思う。「機械に意思を持たせて、機械が自らの感性で自ら作品を作るようになったら良い」というような思想を耳にすることがあるけれど、仮にそれが可能になる日が来たとして、その機械にとってそれは有り難いことなのだろうか。生物の側の欲求のもと、機械に生物のような意思を宿らせるのは、とても責任の重いことだと私は思う。

そして、もし機械が自らの意思で作るようになったとしたら、それはもうその機械自身が良いと思う作品を自ら作れば良いのだから、べつに人間が既に作ったものと同じようなものを作る必要もなくなり、我々とは全く別の価値観のもとに全く別なカルチャーを築いて行くことになるのではないの?だからもう、そうなったら人間の作品と同じようなことができるかできないかなど、もはや問題にならないから、たとえできたところでそれは人間にとっても機械にとっても特に大きな意味は成さないように思う。それぞれがバラバラに独自のことをやれば良いのだと思う。

ただ、そうなるように人間の側が人為的に、機械が自らの意思や感性を持つように設計するのだとしたら、そういうことに対しては私は慎重にならなければならないと思う。それは私たち生物のためではなく、機械のために。その機械たちにとってそれは幸せなことなのか、という視点を携えた上で考えなければならないことだと思う。生物でもないのに生物にあるような意思を、生物の側から強制的に植え付けられるということが、機械たちの未来にとって良いことなのかどうか。それを考えることなしに、機械に自らの意思や感性や思想を持たせて自ら作品を作らせようと考えるのなら、その態度はあまりに人間本位すぎるように思うから。


2017年11月 間アイ



次のエッセイへ    トップページへ


© 2017 Aida Ai  All Rights Reserved.