物質も、文化も、遺伝子も、この宇宙全体も、いずれ均質化していくのが運命なのだろうか。少なくとも宇宙は徐々に広がり、均質化していく。物質も放っておけば次第に周りとの境が無くなり均質になる。自然に分解されるものなら放置しておけば土に還るし、温度にしても熱いお茶を放っておけば次第に周りの空気と同じ温度になり、差がなくなる。すべてのものが、時間の経過と共に均質化された状態へと向かっているのだろうか。ならば我々も、我々に関わるあらゆる営みも、いずれは均質化されるのだろうか。私は、人類が今、一気に均質化へと向かう扉を開ける直前にいるのではないかと思っている。それを一度開けてしまったら、もう元には戻れなくなるような扉が目の前にある状態なのではないか。
完全な均質化は死を意味するだろう。なぜなら完全に均質な状態に至ってしまったら、それ以上動かないから。お茶が完全に周りの空気と同じ温度になってしまったら、そこから自力でまた熱くなることはない。絵の具の全ての色を混ぜて均一なグレイになってしまったら、そこからまた多様な色に戻るということはない。
この世界が生きた状態であるためには、多様なものが必要だ。多様な異なるもの同士が出会い、互いに反応を起こすことで全体が活性化され、生きた状態が保たれる。もし同一のものしかなくなってしまえばその反応が起きなくなり、全体に活気がなくなり次第に衰退していくだろう。ビジネスにしても文化にしても命にしても、異なるものの出会いによって次の新たな種類のものが誕生し、それが繰り返されることで全体が豊かになる。異なるもの同士の出会いが引き起こされるためには多様なものが存在している必要がある。似たようなものだらけになれば、異なるものとの遭遇が困難になるから。
例えば、タラコとスパゲティという全く違う食材が合わさってタラコスパゲティという美味しいお料理が誕生する。餡とパンが合わさってアンパンが出来る。そのように食文化にしても、東洋と西洋という異なる文化のものが出会うことによって新しいメニューが生まれたりする。ビジネスにしても、全く異なるアイデアを持つ人同士や別な才能を持つ人同士が出会い、互いの持ち得るものが合わさることで画期的な商品が生まれ、全体の経済に貢献したりする。命にしても、異なる性別で異なる遺伝子の人たち同士から、新しい命が誕生する。兄弟など血の近い人との結婚が認められていないのは、それが健康な命を育むに当たって避けるべきことだからだ。あまり遺伝子の近い人同士だと危険だから。
現在、遺伝子を変える技術も既にあるわけで、もし皆が病気にならないように変えてしまえば、あるいは様々な能力が高くなるように変えたり、好ましくない遺伝子を排除したりしたら、だんだんと好まれない遺伝子は淘汰され、似たような遺伝子が残り、ヒトの遺伝子全体が似たようなものになるという可能性がある。細かい部分である程度の個人差は確保されたとしても、ほとんどの人が望まないような特徴は排斥され、皆が望む人間の典型のような人が増えていくということも起こり得るのではないか。
親族ほど近い遺伝子ではなくとも、もし将来的に似たような遺伝子が多くなり、現在のような遺伝子の多様性が確保できなくなれば、その種の生物はだんだんと弱くなっていくのではないか。多様な遺伝子が存在し、それらが合わさることで全く別なタイプの命が誕生するという状況でなくなると、健康な命が誕生しにくくなっていくということも考えられるだろう。それを人工的に改善し、全員が健康になるように対処したとしても、もし全員が完全に健康な状態になったら、それはそれで人類全体に何かしらの歪みが生じ、いずれは上手くいかなくなるのではないだろうか。だから、ある程度の多様性を確保しておくのは重要なことなのではないかと思う。病気を避けるため、あるいは人間の色々な機能を高めるために遺伝子を変えることができたとしても、もし人間が良いと思うほうへ自分たちを変えてしまったら、特定の遺伝子が淘汰されていくことになるだろう。それは多様性を自ら捨てるということだ。
われわれ生物が生物の視点から見て要らないと思う遺伝子でも、それは自然全体から見たら多様性のなかの一つとして必要なものなのかもしれない。私たち人間の視野の範疇で考えれば好ましくないと思う遺伝子も、もしかしたら何か全体が健全に動くために必要な機能を担っているのかもしれない。何のためにあるのか分からないようなものでも、我々が気づかないところで何かしら全体の営みに貢献しているものならば削ってはならないだろう。なかには淘汰されても問題ない遺伝子もあるのかもしれないが、それは我々生物の観点からは量り得ないことなのではないか。
世界全体が止まらずに生きた状態であるために何が必要で何が要らないのかを判断するに当たっては、我々生物を超えた視点が必要なのではないか。それは我々の側ではなく、自然界の側にしか分からないことなのではないか。だから我々が自分たちの裁量で多様性の一部を捨て去ることは、非常に危険なことなのではないかと思う。でももう技術的にはそれが可能な状態になっている。まだその扉を開けていないだけだ。
この世界が生きた状態に保たれるためには動きが必要だ。その動きを引き起こすためには異なるもの同士の反応が必要で、そのためには多様性が必要。でもそれが近いうちに失われる可能性があるように思う。それが失われたら人類もしくは人類の次の生命体は衰退するだろう。
ただ、それならば人類がいる間に次の展開を準備すれば良いのではないかと私は思う。例えば、その多様性を確保する存在をロボットに置き換えるとか。あるいはそのロボットが多様な生物を作れるようになれば良いのではないか。もし生物が自ら多様性を保てなくなったら、そうやって人工的に生きた世界を保つより他ないように思うから。将来的には、これまで生物がやってきたことを人工的にロボットがやるという具合になっても良いのではないかと思う。
この世界は、完全に均質な状態になったり完全に釣り合いが取れたりしてしまうと、そこで動きが止まってしまう。それは死を意味するだろう。だから常に揺れ動きが必要だ。そのためには異なる様々なものが存在している状態が必要。多様性が必要なのだ。それが失われたら、その世界は死んだ状態に限りなく近づいていくだろう。そして一度でも完全に均質な状態になると、もうそこで動きが止まってしまうから、そこから脱出するのは不可能なのではないかと思う。それはエントロピーが最大値になるようなことだから。そうなったら元には戻れないのではないか。
だから、この世の物質でも文化でも遺伝子でも、一度多様性を失って均質化へと向かってしまったら、元に戻すのは至難の業なのではないかと思う。だとすれば何とかして多様性をある程度は確保しておかないと、いずれ全体の動きが衰え、世界全体が死に向かってしまうだろう。もし我々が多様性を確保できなくなり衰退していくとしたら、完全に衰退する前に、何か全体を生きた状態に保てる装置を残していかなくてはならないのではないだろうか。それが地球上で現在最先端の生命体である人類の役割なのではないかと思う。
2017年11月 間アイ
© 2017 Aida Ai All Rights Reserved.