今、身近にある色々な新しい製品のデザインに、シンプルで似たようなものが多くなってきているように思う。パソコンやテレビなどの電子機器は特に、大多数がかなり似たような形に落ち着いている。どんどん薄くなって、シンプルになっていく。持ち歩く機器はどんどん小さく、軽くなる。
結局は、いちばん合理的で無駄がない形になっていくということなのだろう。ほとんどの人にとって使いやすく、ほとんどの人にとって目障りにならない、コンパクトで皆に心地よいものを目指すと、結果的にどれも似たようなものに至るということだろうか。
このまま行くとその画一化の兆候は、最終的に人の遺伝子と記憶にも及ぶ可能性があるのではないかと私は思っている。知的生命体はある程度まで進化すると、様々な面で段々とよりシンプルになり均質化していくのだろう。日常で使う製品にしても遺伝子にしても。
生活のなかのあらゆるものがどんどんシンプルですっきりして、そして自分たちの文化もシンプルになり自分たち自身の遺伝子もすっきりしていく・・・。それは、あらゆるものの最適化、煩わしい要素の排除でもあると同時に、個別性の喪失でもある。何もかもが最適化されワンパターンになると、全てが似たようなシンプルなものになり全体が画一化されていくだろう。それが進化ということなのだろうか。
世界中の全員が最大公約数的な製品に囲まれ、自らの脳と身体も最大公約数的なものになる、そしてディテイルは削ぎ落とされ皆の違いが希薄化していく、それが進化であり理想なのだろうか。
ある意味でそれは理想なのだろうけれど、それは生物としては何か致命的な弱点を背負うことでもあるのではないか。だけれど人類から先に至るに当たって、生物であること自体からも脱却するのであれば、それが正しいことなのだろうか。
何が正しいのか分からないが、もう必然的に、人類の様々な営みのなかで単純化と画一化がこの先どんどん進むのだろう。それがきっと、生命が知的生命体まで至って多様化し、ある程度まで辿り着いて以降の自然な流れなのだろう。それがもし、自然の摂理に基づいた宿命のようなものなのだとしたら。
2017年12月 間アイ
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