人類の特性  —自殺する心を得た命—

私が心から尊敬する人は誰かと言ったら、それは初めて火を起こした人と、初めて人を埋葬した人、初めて何の目的もなくただ遠くへ行きたくて遠くを見詰めた人、初めて何の目的もなく踊ったり歌ったり絵を描いたりした人、初めて感嘆詞を言葉として捉えた人、初めて自分で自分を笑った人、そして、初めて自殺を考えた人。

誰なのかは分からないけれど、その人たちを私は心から尊敬している。なぜならその人たちは、生命体の歴史を次の段階へと進めた人たちだから。人類を、人類たらしめた人たちだから。

言葉を使うのも、火を起こして料理するのも、人を埋葬するのも、その場に無いものを頭の中で想像して補うのも、芸術作品など特に生命維持のために必要なわけではないものに価値を感じるのも、人類の特徴と言えるだろう。それと同じように、自殺をするのも人類の特性なのではないか。

一般的に、自分が生きている意味は何なのか、自分の存在とは何なのかなど、自分の生自体を問うのは精神的に良くないとか危険だという話はよくある。それを突き詰めて考えるとどんどん分からなくなり辛くなってしまうから、と。だからそういう事はあまり考えずに普通に日々を生きていたほうが健康的で良いというような話。

ただ、それだと精神医学的には良いとしても、もし皆がそうなったら、そういう事をテーマにした文学作品や絵画などは全部なくなることになる。あるいはそういう事について深く考えた結果出てくるような思想や哲学もなくなることになる。もしそうなったら、果たしてそれが我々人類にとって最も好ましいことなのだろうか。全員が一切、自分で自分の存在や自分が生きていることの意味を問わない、考えないということになったら、それが最も良い世界を形成するのだろうか。むしろそうなったら、自分で自分を問わない限り生まれない思想や作品や、その他、そういう意識を持っている人だからこそ出てくるような行動や考えや生き方が生まれないのだから、世界はより貧弱になるだろう。

そういう事について考えて、たとえ自殺する人がいたとしても、それもそれで人類の特性なのではないか。だからそういう事について考えなければ良いというのは、健康的に生きていくことを目的にするならば当たっているけれど、人類の特性を尊重することを優先するならば必ずしも妥当ではない。

なぜなら自分の生について「考えてしまう」というのも、人類の特性だから。人類は理性を獲得してしまったのだから。考えるという機能を得てしまったのだ。ならば当然、自分自身の存在についても考えることになるだろう。それはごく自然なことだ。「べつに考えなくてもいい事、むしろ考えない方が健康でいられるような事についてまでも考えてしまう」というのはもう、人類が人類になった時点で授かった宿命なのではないか。だからむしろ、それをとことん突き詰める人がいるのは大変に人類としての特性を全うしていて素晴らしいことでもあると思う。たとえそれで自殺したとしても。

自殺を考えるのは人類に特徴的なことと思うけれど、もし地球の生命体の中で基本的に人類だけが自殺を考えるのだとしたら、そこには理由があるはずだ。人類は野生動物に遭遇しない限りは、基本的に他の生物に食べられる危険性から免れている。だから自分たちの種の中で減ることもないと増える一方となりバランスが取れないのではないか。とすれば何の外的要因もなくとも自分の生きる意味を考えて自殺する個体が出るのは必然であって、それを必ずしも私は否定できない。(現時点で人類以外にもし自殺する生命体がいたとしても人類ほどの自殺率ではないかと思う。)

なぜなら、メタ的な視点を持っているのが人類だから。人類は自分自身の内側だけではなく自分自身を外からも見ている。自嘲するとか、自画自賛するとか、自分自身を自分で客観的に捉えるとか。自分のことなのにそれを遠くから見詰めるような視点を持っているのが人類の特徴だ。それがあったら当然、自分が生きているという状態についても自分で考えるようになる。

でも考えているのも結局は自分だから、自分自身が自分のことを外から見た視点で捉えようとしても限界があるわけで、永久に明確な答えは出ないわけだが。でもそうやって永久に自問自答してずっと同じ疑問が繰り返されていく、そういう自己言及的な構造、合わせ鏡のように自分が自分を映して幾重にもなって終わらないような構造を持っているのも人類の特性だと思う。むしろ私はそれが人類の最も大きな特性だと思っている。

生命体自体に既に、自己言及的な構造、同語反復的な構造、自己増殖、つまり細胞が自分自身をコピーするなどの性質はあるわけだが。更にそれを自分自身で客観的に捉える「メタ視点」を持ったというのが人類の最大の特徴だと私は思っている。

だから例えばそれが原因で自殺する文学者がいるとしたら、それはそれで良いと思う。文学者でなくとも他の業種の人でも誰であっても。そのことが原因なら、もうそれは人類の必然だと思うから。

そもそも「自殺はしてはいけない」というのはそれ自体はとてもまっとうな考えで何も間違ってはいないと思うけれど、ただそれは飽くまでも「人間の世界」の中だけで考えた場合の話だ。「自殺しちゃいけない」というのは人間の視点だけから見たときに正しさを得られる話だから。地球の環境全体からすれば、むしろ人間がもう少しいなくなったほうが良い、人間に減ってもらいたいという状態とも言えるだろう。

他の動物からすれば、人間に対して「こんなにビル建てて車だらけになって空気を悪くして大迷惑」とか「自分たちが住んでいた森を勝手に切り崩して住める場所は減ったし食べるものにも困ってるんだけど」と思っているかもしれない。地球環境からしても、環境に感情はないけれど「オゾン層に穴あけやがって。どうしてくれんの!」「海に廃棄物ながしてんじゃないよ!」「土に還らないものを土に埋めてんじゃないよ!」という状態かもしれない。だから人間が自らの意思で減っていくのなら、むしろ他の生物や環境全体からすれば「あー、良かった良かった!」ということかもしれない。

ただもちろん、せっかく授かった命なのだから、そして一人一人の命もこの地球環境全体の中で自然から授かったものであり全ての命に生存権はあるのだから、生きているべきだと考えるのもとても正しく、当然のことと思う。ただ、人間以外の視点を含めて考えたら、人間に絶対にいてもらわないと困るということではない、むしろ少なくなったほうが安心という状態にはなっているだろうということ。だから必ずしも自殺を絶対悪のように捉えるのは完全に人間のエゴだと思うし、それは人間たちの世界だけに限った話でしかないと思う。

私は一人の人類として、これから生まれて来る人には心から無事に生まれてきてほしいと思うし、いま生きている人にも生きていてほしいと思う。でも、すでに自殺した人々のことを責めたくはない。生命体の中で人間という種族が自殺をするということにも理由があると思うから。

生きていくのは、生命体として尊いこと。そして自殺を考えるのは、人間として尊いことかもしれないと思う。それが良いこととは私は言い切れない。でも、必ずしも悪いこととも言い切れない。ただいずれにしてもそれは、尊いことではあると思う。価値のあることだとは思う。なぜならそれは、人間にしか備わっていない機能だと思うから。

自分で自分を笑う。自分で自分を褒める。自分で自分を奮い立たせる。自分で自分を振り返って反省する。自分で自分を肯定する。自分で自分を否定する。自分で自分を殺そうと思う・・・

そんなふうに自分自身を、自分の外に立った視点から客観的に見るというのは人間にしかないことなのではないか。人間というより、生命体が進化してある程度の知的生命体の段階まで来て、初めて芽生える機能なのではないかと思う。生命体なのに自分で自分を殺すという矛盾したことをするというのは、ある意味で生命体が何かしら限界の地点まで来たということ、そこで一つ、それまでの生命体の進化の過程では無かった局面に来たということだと思う。自殺する生命体が現れるというのは、この宇宙のなかで生命体がその段階までは辿り着いたことを示す証でもある。

自殺は我々人間の範囲内だけで考えたらとても悲しく受け入れ難いことかもしれないが、生命体の進化の歴史全体から見れば、そこには非常に重大な意味があるのではないだろうか。生命体が自ら、自らの命を否定するという自己矛盾した行動に出るところまで来たという、とても重大なことなのではないか。そこまで自らが自らを問う脳を抱えるに至ったということを示しているのだから。自嘲も自画自賛も反省も全て自分で自分を客観的に見ないとできないわけだから、それらも自らが自らを見る視点を獲得したことを示してはいるが、自殺がその最たる例なのではないか。

恐らく、この宇宙のどこで生命体が発生したとしても、その生命体が進化して知的生命体のある段階まで至った時には、自らの内に他者の視点を獲得するのではないだろうか。そして自分の内側に自分を外から見る他者の視点を内包したことを決定的に示すのは、最初の自殺者なのではないか。その中でも自分で自分を問うことが原因で命を絶った人。そういうことをした最初の人は、初めて火を起こした人や言葉を使い始めた人たちと同様に、人類が人類となったことを体現した偉大な存在であり、どれほどその行為が生命体として褒められたものでなかったとしても、私は心から尊敬する。


2016年8月 間アイ



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