昔は本屋さんで綺麗な景色の写真集などを見ると買いたいと思ったが、最近はネットで画像を見れる時代になったから、買うときに本当にそれを買うべきかだいぶ悩むようになった。
一般的にそういうことは音楽に対してもあるだろう。CDを買わなくても聴ける手段が増えたから、わざわざCDを買うかどうかかなり考えるという人も昔より遥かに多いだろう。
今はあらゆるものが共有される時代になってきているように思う。あらゆるものがインターネットで繋がる時代。皆がネットワークと繋がっている時代。皆がいつでも同じ情報にアクセスできる時代。「共有の時代」とも言うべきか。画像も音楽も情報も、ネットワークに繋がっていれば皆が皆の情報を共有できるのだから。
そうすると「所有」の意味が変わってくるだろう。所有というのが個人的なものから公共的なものになる。そうなると所有欲のようなものがなくなるというか、究極的には、個人的には何も欲しいものがなくなってしまうのではないか。
そして、これから数十年くらいかけて、少しずつ他人との境がなくなっていく時代に入るのではないかと私は思っている。その時代が到来した頃には、他の全ての人の情報を全ての人が共有するような、情報の上では地球規模で全員がシェアハウスをしているような状態になるのではないか。
例えば今は知りたいことがあればインターネットに繋いでそこから情報を得るけれど、もしその巨大な情報自体を脳のレベルで皆が共有できたら、全員が膨大な量の記憶を共有できることになる。
皆が持つあらゆる記憶が蓄積された巨大なメモリのようなものが用意され、それと皆の脳が直接無線で繋がったら、何も調べなくとも頭で何か知りたいと思っただけで、直接頭に知りたい情報を映し出すこともできるかもしれない。自分の記憶を思い出すのと同じように。
例えばウィキペディアに載っているような情報を見たいと思ったとき、今はネットで検索して情報を得るわけだが、そのウィキペディアに載っているような情報の全てが蓄積されたコンピュータのようなものがあったら、そしてそれと世界中の人の脳それ自体が繋がったら、もうその膨大な情報自体が人の記憶のようになって、知りたいことがある時はいつでもそれがあたかも自分の記憶かのように呼び出せる、という具合になるかもしれない。
そして今は遺伝子も変えられるのだから将来的に人類から進化した生物たちが、もし遺伝子が似ていてかつ脳に蓄積されている情報を共有できるという状態になれば、他人と自分の境は、ほとんど自分を自分であると認識する感覚くらいしか残らなくなるのではないか。
遺伝子も最適化し、そして記憶も皆で共有できる、皆が世界中のあらゆる情報を自分の記憶のように扱えるようになり、遺伝子も皆が様々な面で最適だと思うものに変える・・・、そうなればもうほとんど他人と自分との差はなくなるだろう。
このまま人類が様々なものを「共有する」そして「最適化する」という志向を突き詰めた場合、最終的には、先天的な遺伝子のレベルでも、後天的に蓄積される記憶のレベルでも、もう皆が似たようなものになる、もしくは皆が皆のものを共有するという世界が到来してもおかしくはないと私は思う。それが良いことなのかどうかは別として。
生命体であることの要件として、自己複製できることや代謝できることなどが挙げられるだろうが、その一つに「自他の区別ができること」というのもあるだろう。生命体はモノと違って、自分と自分以外のものの区別が付く。他人のことを自分だとは思わないし、他人もこちらのことを自分だと認識したりしない。それは最低限、生命体が生命体であると言える要件だと思う。
「他人は自分ではない」など、当たり前すぎて普段は意識することはあまりないだろう。なぜなら他人と自分はふつう、外見も性格も経験も持っている技能なども異なるため、そんなことを意識しなくとも違うということが明白だから。でも、もし将来的に似たような人だらけになった場合、もう他人と自分の違いというのは、究極的には「自分だけを自分であると思っている(他人のことは自分だとは思っていない)」という、生命体の最低限の要件にまで縮小される可能性もあるのではないか。
2017年12月 間アイ
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