経済の歴史にバブルがあるように、人間の歴史全体あるいは地球の生命の歴史全体にもバブルのようなものがあるんじゃないかなあ。豊かで多様で、発展が目覚ましい夢のような時期が。
そうだとしたら今が、バブルのときのようだと思う。もう、今のような状態は今しかない。もうすぐ終わるのだろう。たぶん、あと数十年したら世界は急速に変わるのだと思う。今そこに向かっている。今のこの状態は、長い生命の歴史のなかで本当に一瞬だと思う。
よく、「バブルのときは皆、いつまでもその状態が続くと思っていた」とか「誰もバブルが終わるなんて思ってなかった」「崩壊してから初めて『ああ、あれは一瞬のバブルのようなものだったのだ』と気づく」とか言われるけれど、本当にそうだったのかなあと思う。少数だったとしても、「この状態が続くわけない」と思っていた人もいたよね。でも、その人たちは、自分たちが何をどう言ってももう止められないから、なるようにしかならないということも分かっていたんじゃないかと思う。
なんだか今の状況が、その状況にちょっと似ている気がした。経済のバブルほど短い期間ではないけれど、今のこの状態の世界があるのはほんのあと数十年程度なのではないかと私は思っている。長くとも100年くらいの間にはかなり変わってしまうのでは。それは今までの地球の生命の歴史のなかで一番大きな変化。ここまでと、ここから先は、全然別な歴史になる。ここからは人工的に進化していくから。そしてそうなると、もう将来的には生物ではないような状態になるかもしれない。少なくとも今までの人間ほどの多様性はなくなる。今はいろいろな人がいるけれど、それが段々と失われ、似たような人が多くなる。
自然のままにキュウリや大根などの野菜を育てたら、いびつなものも、真っすぐなものも、長いものも短いものも、色々な形のものができる。味もいろいろ。でももし人工的に整った形のものになるように図らったり、一番美味しいと思われる味になるように改良したりしたら、だいたいが同じような形の同じようなものになる。それが人間で起きるということ。ある程度の違いは残ったとしても今ほど多様な人がいる状態ではなくなる。だって遺伝子自体を操作して人間が望むように人間の遺伝子を変えられるのだから。
そうなると思っている人、今がその前の最後の時であると認識している人は、きっといるんじゃないかと思う。もう私は、今が最後だと思っているよ。経済のバブルほど一気に消えるようなものではないけれど、この今の状態はきっと少しずつ失われる。100年くらいしたらもう別世界になるのだろうと思う。200年後には、人間から変化を遂げた存在は、もう今とは根本的に身体も精神も世界の認識の仕方も全然違う状態になっているんじゃないかな。ここ数十年が、そこに至るまでの初期の段階だと思う。
それは過去にあった大きな転換期である大正デモクラシーとか明治維新とか、あるいは産業革命とか戦前と戦後の違いのような社会の変革どころではない、地球の生物史上最大のターニングポイントだよ。そして一旦、世界が次の状態に移行したら、もう二度と今の状態には戻れない。そのくらい大きなこと。
私は、どれだけ自分が騒いでも、人間が自分たちの遺伝子を自分たちの希望に添って操作するという未来は、かなりの確率で来るのだろうと思っている。もちろん未来のことは誰にも分からないので、そうならない可能性もあるけれど、でも今の状況から普通に考えたら、そうなる可能性のほうが遥かに高いと思う。
ならば、それについて考え、語り、議論することに意味はないのだろうか。どうせ来たるべき未来が来てしまうことを避けられず、今からその未来を変えることなどできないのだとしたら、何を考えても無意味なのだろうか。いや、そんなことはないと私は思っている。
同じ未来に至るのでも、何も考えずにそうなるより、本当にそれで良いのか考えたうえでそうなったほうが、知的生命体らしいと思うから。
地球の生命の歴史のなかで、バクテリアから私たち知的生命体までは、自然な流れでそうなったという感じだと思う。何も考えなくとも、自然に身を任せればそうなるような。だからそこまでは何も考えないで進化するのは当然。でも私たち知的生命体は考える力を持っている。ただそのまま自分たちの状態に身を任せるのではなく、「それで良いのかどうか」と自分自身に問い掛けることができる。
だから最大限、今の天然の人類がそれぞれに、本当にそれで良いのか、「自分たちが自分たちの裁量で、自分たちのたった一時の価値観で、自分たち人間の視野から分かる狭い範囲の判断基準だけで、自分たちから先まで長く続いていく子孫の遺伝子を変えて良いと思うのかどうか」ということを考える意味はあると思う。
そして、そこを考えて尚、「そうなって良い」とか「むしろそうすべきなのだ」という結論に至ったなら、じゃあそうすればいいんじゃない?としか私は言えない。
だけれど、そういうことについて考えずに、ただ「技術があるから」という理由で、自分の願望を叶えるために目の前にある科学技術を使うのであれば、それは単に「目の前にバナナがあったからじゃあそれを食べる」という、猿までの本能的な生物の行動と何も変わらない。
せっかく猿が今の私たち人間に繋げてくれて、そして私たちは理性を携え、自分たちの行いを自分たちで検証するような客観的な視点を持ち得たのだから、その思考を使わなければ人間という知的生命体であることの意味がない。
だからもし自分たちで自分たちの望むように遺伝子を変える未来が来るとしても、本当にそれで良いのか最低限「考えられるだけのことを考える」ということは必要だと思う。今地球の知的生命体は、それを考えるのか考えないのか試されている段階にあると私は思う。
遺伝子を自分たちの好きなように変えたことが原因で、みんなが病気に罹らない、超健康体で病気知らずの体質になったとしても、その身体では対応できない新種のウィルスが登場したとき、皆の体質が似ているせいで皆が一気にそのウィルスに感染し、人間がほとんど絶滅に近い状態になって短い期間に「はい、終了」となって良いのであれば、あるいは新種のウィルスなど出て来なくとも、あるいは出て来ても対処できるように身体を変えたり体内のロボットが退治したりできたとしても、人間の遺伝子が全体的に似通ってくることで遺伝子の多様性が失われ、そのせいで次第に人間という種の活気がなくなり衰退して行くことも考えられるけれど、そうなって良いのであれば、じゃあもう、人間の勝手にすれば?としか言いようがない。それでいいならべつに否定はしない。そうなることを望むのなら。そういう未来が、自分たちが辿り着くべき未来として最も理想的だと思うのなら。そうなったときに何も文句がないのなら、じゃあそれでいいんじゃない?と思う。
ただとにかく、一旦「考える」という作業を経てから「未来を意識的に選択する」ということが必須だと思うのだ。なぜかと言ったら、私たちは本能のままに生きる生物ではなく、未来を考えたうえで行動できる「知的生命体」だから。
どんな未来に至るのだとしても、次の進化への扉を開ける前に「考える」という工程を踏むことが、知的生命体としての在り方だと思う。
それが、ここから先の進化の歴史を作る契機となるのが知的生命体であるということの意義だと思うから。
これまでの地球の生命体は自然な進化を遂げ、そして我々知的生命体である人類から先の進化は人工的な進化となる。そのターニングポイントで変わるのは、進化に際して「考える」という作業が介入できることだ。今その人工的進化にシフトする時で、これから先その人工的な進化の流れが長く続いていくなかでの、最初の「考える」地点を迎えているのだ。
話が戻るけれど、財政破綻に関しては一部の人達は分かってたんだよね。そんな超好景気が永久に続くわけがないって。だいたい、経済に限らず、人間が人間の願望を叶えるために勝手にやって上手く行ったことなんてないよね。私たちはそのことをもう散々、歴史から学んでいる。
高度成長期の公害とかもそうだよね。とにかく世の中を発展させようと人間が邁進して、環境への影響を考えず産業廃棄物を海や空に大量に流して、そのせいでお魚がそれを食べて、それを食べた人間が水俣病になったり空気が汚染されて人間が四日市喘息になったりしたんだよね。そこから、「やっぱりこのままではまずい」と気づいて、環境のことを考えて産業を発展させなければならないということを学んだ。
人間がただそのときの人間の視野だけで望ましいと判断したことをそのままやったら、必ず後から弊害が出るんだと思うよ。経済のこともそうだよね。でもその渦中にいるときの人間は、気づかないんだよね。そのときは、それでいいと思ってしまうんだよね。それで後になって大変な弊害が出たときに初めて、「ああ、これは間違いだったのだ」と気づくのだよね。
でも、経済なら一旦破綻しても永久にそのままというわけじゃなくてまた変動して持ち直せる。環境を考えずに産業を発展させて公害が出た場合も、環境に配慮したやり方に改善すれば防げるから、それも持ち直せる。元に戻せることなら、一回失敗してもその失敗から学び、次に活かすということができる。
でも、次がないこともある。
「人間が人間の願望のもとに突っ走る」。それが次は「遺伝子」で起きる可能性があるのだよ。
これは今までと違う。後戻りはできないから。一度、人間の判断で淘汰させた遺伝子が、後になって「やっぱり必要だったのだ」と気づいても、もう遅い。一回削ってしまってこの地球上から必要な遺伝子を消してしまったら、それは元通りには戻せないよ。それどころか人間の健康のために、人間の病気を媒介する蚊など人間以外の生物の遺伝子も書き換えて、そのせいでもし生物全体の営み、生態系全体の営みを狂わせたら、それはもう、元には戻せないよ。だから遺伝子の操作は、よほど慎重にやらないと、失敗して後から気づいたのでは遅い。
私たちはもう、人間の持っている視野がどれだけ狭く、人間の視点から見て好ましいと思うようにすることがどれだけ危険かを自覚している。
だって今までのことから考えたら、人間が人間の基準で良いと思うことを勝手にやったら、確実にその後で何かしら深刻な弊害が出るでしょ。環境汚染しかり。財政破綻しかり。
人間が人間の遺伝子を操作するならばそれは、自分たちの望みを叶えるためではなく、「全く別な生物を新しく作るのだ」という意識でやるべきだと私は思う。
私は決して、遺伝子の操作自体をやるべきでないとは思わない。それはむしろ、必然的にやることになるよう、この宇宙が始まった時からプログラムされていたようなことだと思う。この宇宙でいつか生命が誕生し、その生命が知的生命体まで至った後、その生命体たちが自分たちで次の生物を設計して作り出すということが、もう決まっていたのだと思う。だからそれはやるべきだと思う。というか、必然的にやることになると私は思う。
でも、そのやり方を間違えたら終わりだと思うのだ。その技術を使う方向性を間違えたら終わりなのだ。
知的生命体が手に入れた「遺伝子を操作する技術」は、自分たちの願望を叶えるためにあるのではなく、「自分たちの次の新しい生命体を生み出すために」あるのだ。だから、単に自分たちが自分たちの子供をどうしたいとか、人間が人間の裁量でこの遺伝子よりこの遺伝子のほうが好ましいからとか、そういう基準で人間の遺伝子を皆が変えていったら、いつか必ず、人間の遺伝子全体のバランスが悪くなり、何か深刻な弊害が出るのではないかと思う。そうなってもし人間が絶滅に近い状態にでもなったら、人間の次を担うはずの存在を人間が設計し生み出すことに失敗してしまう。そうなってからでは遅い。
だから私は問いたいのだ。いま私たちが手に入れつつある、「遺伝子を操作する技術は、私たち自身のためにあるものなのですか?」と。それは私たち自身の願望を叶えるため、私たち自身の豊かさのため、幸せのために、使うべき技術なのですか?もしも人類皆が、自分が望ましいと思うように生まれてくる人間の遺伝子を変えたら、どうなりますか?そうなったとき、どういう問題が生じる可能性があるか、一人一人が考えられるだけ考えてからでなければ、絶対に人間が自分の幸せのためにその技術を使ってはいけないと私は思う。後から気づいても遅いから。今回だけは失敗が許されないからね。
そして、「人類が間違ったことをやっても自然に任せていれば自然の力がそれを修復してくれるから大丈夫」という時代は終わった。なぜなら、その自然のルール自体を、人間が人工的に書き換えることができるのだから。人間が人間の生み出した科学技術で、自然の仕組み自体も書き換えてしまうことができる段階にまで、いま達しているのだから。そこまで来たら自然に回復してもらえるから大丈夫という状況ではなく、自分たち自身で、自分たちと自分たちを囲む自然全体の営みが保たれるように細心の注意を払わなくてはならない。自然を自分たちの都合の良いように変える技術を手に入れたからと言って、自然を支配できるとか思ったらもう終わりだから。それは絶対無理。人間の一時だけの価値観で、自然を思いのままに変えることができたように見えたとしても、それは絶対後になって結局長い時間をかけて自然の側から審判を下され、人間だけの思うようにはならないよ。
なぜかと言ったら、この世界は人間だけのためにあるものではなくて、他の生物を含め環境全体のためにあるものだから。だから自分たちだけに都合良い状況に偏ったらバランスが悪くなり、結局上手くいかない。だからどれだけ科学技術で願いを叶えても、絶対に、人間だけにとって良いようにはいかないんだよ。
単なる、自然回帰すればいいとか、人間が自然に手を加えて人工的なことをするのがいけない!とか、そんなことじゃないんだ。単に、何もせず自然のままにするべきっていうことじゃないの。だってそれじゃあ人類から先に進まないもの。人工的進化はぜひあるべきだし、絶対にいつかはそうなるようになっていたと思う。それも含めて、大きな意味では自然の摂理で決まっていたのだと思う。
だから、その革新的第一歩を踏み入れることに失敗してはいけないということを私は言いたいの。
自然のままにしておくのがいいとか、人間が人工的なことをしちゃいけないとか、そういうことじゃないの。それだったら単に、科学技術による人間の進歩をやめればいいってことになる。そんなんじゃないの。進歩はしなくちゃいけない、というか必然的に、することになる。でもその進歩の仕方に失敗しちゃいけないの。だから言っているの。
じゃあ、どうしたらここから先の進化を無事に成し遂げられるのか、どうなったら失敗する危険性が高まるのか。私は、人間が人間の欲求に基づいて行動するとき、その行動自体が目的になると最も危ないと思っている。自己目的化すると一番危ない。例えば経済のことで言えば、社会を発展させるために景気を良くし、大勢の人がたくさんお金を稼ぎたくさんお金を使うようにする、というのなら健全だけれど、お金をたくさん持つこと自体が目的になってしまうと、そしてそういう人が多くなるとバランスが狂って全体が破綻する。人間の遺伝子を変えるにしても、何か明確な目的を持った上で、例えば人類の次の生物を作るという目的などの基に意識的に変えるのならば、変える範囲などのルールを厳格に決めたうえでなら良いと私は思っている。それから新しく誕生させるその生物の数を厳格に管理するならば。だけれど、ただ単に自分たちの望むように「遺伝子を変えること自体」が目的になってしまったら終わりだと思う。
だから人間の遺伝子の操作は、もしやるなら人類全員が相当な覚悟を持ってやらないといけない。生まれる前の遺伝子の改変が知らない間に始まって、皆がそれについて考える間もなく、知らない間に当たり前になっているということを私は一番恐れている。それだけは避けなければならない。そうなってからでは遅いから。
「遺伝子を変えるなんて抵抗ある人も多いだろうから、そんなの当たり前になんてなるわけないよ」と思う人もいるかもしれない。でもそうは言えないと思う。もし、誰もが遺伝子を変えたうえで生まれてくるのが当たり前になっている世界に生きていたら、変えない人がいたとき、「なんで変えないの?」と言うようになるだろう。だって、例えば今、視力の低い人は眼鏡かコンタクトレンズを使うのが当たり前になってるでしょ?それについて、「本来は自分は目が悪いのに、人間の技術を用いて眼鏡で人工的に視力を上げるなんて、そんなことしちゃっていいんだろうか?」なんて後ろめたさを感じる人なんて普通、誰もいないでしょ?それはもう、目が悪ければ眼鏡やコンタクトレンズを使うということが当たり前になっているからだよ。自分のいる社会全体がそういう状況になっていたら、もう誰もそういうことに疑問を持たないよ。遺伝子の操作で完全に健康状態に問題のない人を誕生させる、もしくは能力的な面や見た目も操作した上で誕生させることが当たり前になったら、それと同じことになるよ。だから当たり前になってからでは遅いの。今、考えないと遅いの。
2018年2月 間アイ
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