非合理的判断の必要性

人間はコンピュータと違って、失敗の確率のほうが高いものに敢えて賭けるような非合理的な判断をすることがある。自分にできそうもないことに敢えてチャレンジしたり、ごく稀にしか叶わないような夢を追いかけたり、成功させるのが難しいビジネスを始めたり、ギャンブルをしたり、宝くじを買ったりする人もいる。なぜわざわざそんな非合理的なことをするのかと言ったらそれは、そういう判断が生命の進化に必要だったからなのではないか。

なぜなら、もし生命体の全てが常に合理的判断をして予測が付く範囲内で安全牌だけを選び、それ以外の冒険をしなかったのなら、おそらく次の進化への大きな革命が起きないだろうから。きっと進化するためには何か飛躍が必要で、その為には非合理的な賭けに出る個体が必要ということなのではないか。

例えば、もし魚の全てが安全策を取り、「ずっとこのまま海のなかにいたほうが良い」という、自分たちが生存していく上で大変合理的な判断をしていたとしたら、誰も陸に上がろうとはしないわけで、そうなると両生類への進化は起こらないはずだ。合理的に考えたら「海の中の方が楽に生存できるのに、どうしてわざわざ陸なんかに出ようとするの?」と思われるような冒険に出る生物がいたから、次の生物へと進化したのではないか。だから時々、生存を第一に考えるならば本来は危険で決して合理的とは言えないような無茶をすることが、生命全体の進化のためには必要だったということなのではないか。我々はそうやって進化を経てきた生物達の子孫なので、その性質を受け継いでいるのだろう。だからコンピュータから見ればあまりに無謀で非合理的な判断をすることもあるのだろう。

「非合理的判断が必要か不必要か」ということが、一つ、コンピュータと生物との違いだと私は思う。生物であるならば、進化していくために非合理的判断が必要となる。しかしコンピュータは生物ではない故、今のところ進化していく必要がないから合理的判断のみで成り立つ。

しかし、未来のコンピュータもしくは未来のロボットはそれで良いのだろうか。我々人類や、人類の次に来る生命体もいずれは途絶えてしまうとしたら、その先はロボットが地球上最先端の存在として未来を担って行かなくてはならないのではないか。そして地球以外に住む他のロボットや知的生命体たちと交信して、より宇宙を探って行かなければならないのではないか。

だから、将来的にはロボットも、生物のように非合理的な選択肢を稀に選ぶという状態になる必要があるかもしれない。そうならないと、ロボット自身が自分たちでその先へ進化して行けなくなるかもしれないから。合理的判断だけを繰り返しているようだと、その範囲内でしか変化が起きないので、そのロボットが合理的だと判断する範囲を超えられない。そうなると永久に恒常的な状態が保持されるだけになってしまう。進化するには何かしら非合理なことをしなくてはならないのだろう。だから、その部分も人間が健在なうちにプログラムしておかなくてはならないのではないか。今はロボットは合理的判断しかしないように出来ているとしても、人間がいなくなるまでには独自の進化が可能にならないとロボットから先が続かないのではないか。

ロボットに非合理的判断をさせることは、私が先のエッセイ「生命倫理だけでなくロボット倫理も」で取り上げたような、ロボット倫理に反することだろうか。私は今回の場合は良いのではないかと思う。「非合理的判断をさせる」という場合は、ロボットに自らの意思を与えるとか感情を与えるということとは違うので。感情や意思は、生物が生物という種族として生き延びるために必要なものであり、故にそれを生物でもないものに与えるのは不自然なことだけれど、対して「非合理性」というのは、おそらく必ずしも生物に限った問題ではなく、何かしらのものが「進化」するに当たって必要なものということなのではないかと思う。

つまり「意思や感情を持つか否か」は「生物であるか否か」に関わる問題だけれど、「非合理的か合理的か」というのは「進化が必要か否か」に関わる問題だと思うということ。だから「非合理性を与えるかどうか」という問題と「意思や感情を与えるかどうか」という問題は別系統だと思う。だから、もし非合理的判断が進化のために必要なのであれば、それは生物でないものに与えても問題ないのではないかと私は思う。

私は、「ロボットが非合理的判断をするようになる」ということのほうが、「ロボットに意思や感情を持たせる」ということより遥かに先立つ重要な問題なのではないかと思う。

ただ、もし感情によって非合理的判断が生み出されているのだとしたら、感情も無しに非合理的判断をするのはどうなのかという問題が生じるかもしれないが。人間が非合理的判断をする場合というのは、何の理由もなしにそうするのではなく、多くの場合、それは何かを手に入れたいという欲求や何かを知りたいという好奇心などに起因しているように思う。例えば「儲けたい」という欲求から、成功の確率が低いビジネスにチャレンジするとか。「前人未到の地を踏みたい、そこから見える景色を見てみたい」という好奇心や冒険心から、命を懸けてでも危険な探検に出るとか。とすれば、そのような欲求や感情を抜きに非合理的判断だけをするというのは、生物には無いことなのかもしれない。だから、もしロボットに非合理的判断をさせるとすれば、そのような感情の部分を飛ばして、ただ進化のためだけに非合理的判断をするということになるのだとは思う。

それを不自然なことと考えるか否かは、人によって見解が分かれるところだろうが、少なくとも私はロボットに非合理的判断をさせるのは、ロボットに感情や意思を与えることよりは不自然な度合いがずっと低いように思っている。たとえ、生物の場合の非合理的判断が感情によって引き起こされるものだとしても、それは生物の場合であって、感情を要さない「純粋に進化のための非合理的判断」というのも存在し得るかもしれないから。感情を伴う非合理的判断と、感情を伴わない非合理的判断があるかもしれないから。そして生物は感情を伴う非合理的判断によって進化し、ロボットは感情を伴わない非合理的判断によって進化することができる、ということもあるかもしれないから。


2017年11月 間アイ



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