死に方の選択に自由を

日本では生き方については民主主義のもと本人の自由に任されている面があるけれど、死に方についてはそこまで本人の意思が尊重されていないように思う。死に方についても本人の意思を尊重できるようになったほうが良いと思う。

今は医療技術が進歩して「生き延びる手段」が多くなり、「生きる為の選択肢」は増えたと思う。それは今後、科学技術と医療の発展によって更に増えていくことだろう。

でも一方で、「死に方の選択肢」は限られているように思う。生き延びる技術だけが増えて、人間の「生きる意思」は尊重される一方、「死に対する意思」についてはそこまで尊重されていないように思う。

誰もが最大限に長生きしたいと思っているわけではないし、誰もが何としても延命したいと思うわけでもない。その時が来たら自然に死にたいと思う人もいる。まもなく死ぬことが予めもう分かっているのなら、自分の意識がはっきりしている内に周りの人たちに感謝を述べ、大切な人に見守られながら穏やかに旅立ちたいという人もいる。だから尊厳死は認められるべきだと思う。

医療技術が発達し、たくさん生き延びる方法が登場すればするほど、死に対しても多様な考え方を受け入れる準備が必要なのではないか。

それから、「何がその人にとっての死なのか」ということも人によって違う。

例えば私にとっては、最低限、自分のことが自分だと分かり、意識がはっきりしている状態が生きているということ。だから、たとえ心臓が動いていたとしてもその状態が保てなくなったのならそれは私にとっては死を意味する。だから、そうなったときは私の身体も死なせてほしいと思う。

例えば事故などで全く意識がなくなり、戻る見込みもほとんど無いのであれば延命することなくそのまま死なせてもらいたい。あるいは完全に脳が正常に機能しなくなり、自分のことも自分だと分からないくらい、周りの人のことも自分のことも正常に認識できないくらいになったら、私は死なせてもらいたい。もちろんそう考えない人もいるから、そういう人は生き続ける自由があると思う。ただ、飽くまで私の場合は死なせてもらいたいということだ。

もし私がそういう状態になって周りの判断のもと無事に死ねた場合、間違っても、私を死なせてくれたお医者さんやその判断をしてくれた身近な人を罪に問うようなことはして欲しくない。だから、そういう人もいるということを尊重した社会のルールが必要だと思う。

もし自分が自分のことも分からないくらいになったら、自分から死なせて欲しいという意思を伝えることもできなくなるから、その場合は予め家族など身近な人やお医者さんなどにその意思を伝え、そうなった場合には死なせてもらえるように頼んでおくというのもあって良いのではないか。私はそうしたい。

生き延びる自由もあるけれど、死ぬ自由もある。それは自殺というのとは違う。「自分の死をどう考えるか」ということだ。

何が自分にとっての死なのか、人によって違う。心臓さえ動いていれば生きている、心臓が止まったときが死だと考える人もいれば、意識がなくなったら死と思う人、脳が働かなくなったらそれを死と思う人、あるいは自分が生涯やってきた仕事がもうできない状態になったらそれが自分にとっての死であるという人もいるだろう。「それをやっている人=自分」もしくは「そこにいる人=自分」という認識を持っている場合には、もうそれまで自分のやってきたことを続けるのが叶わなくなった時点で本人にとっては死と同じなのだと思う。その例を挙げるなら、フィクションだが『海の上のピアニスト』や『鉄道員(ぽっぽや)』などがそうだろう。

いずれにしても、自分にとって死を意味することが訪れたら、もう抵抗せずにそのまま旅立たせてほしいという人もいる。もちろん、どんな治療をしてでも、最先端の医療を駆使して最大限に生き延びたいという人もいる。そういう人の意思ももちろん尊重されるべきだと思う。

そして何が死を意味するのかは人によって違う。生き方に関する考え方も人によって様々だが、死に対する考えも多様にある。だから、人に生き方の自由を与えるのなら、死に方の自由も与えるべきだと思う。人の生きる意思を尊重するのなら、自分にとっての死が訪れた際の死ぬ意思も尊重されるべきだと思う。

ロシアに住む少数民族であるチュクチ族などには、「自発死」というのがある。ある程度の年齢に達した後はもう次の世代に託して自発的に死ぬというものだ。そういう文化のない現代の日本人からすれば衝撃的なことかもしれないが、非常に過酷な環境の中で自分たちの共同体を絶やさず後世に繋いでいくために、そうしなければならないという地域もあるということだろう。日本はそこまで過酷な環境ではないからそこまで考える必要はないかもしれないが、世界にはそういう死に方もある。それはその地域の人でなくても、本人がそれを望むのなら、そして周りの人たちもそれを受容できるのならば、そのような死に方についても個人の価値観をもとに否定することはできないように思う。

死に方について、何が正しいとも間違っているとも私は言えない。それは本人とその周りの人たちの問題なのだから、本人の意思をまず尊重し、そして周りの人がそれを受け入れられるのであれば、そして他の人に迷惑がかからない死に方ならば、誰にもそれを否定する資格はないのではないか。

ただ、あまりに多様な死に方を認めてしまうと、万が一、本人の意思であると見せかけた他殺だった場合にそれを発見できなくなるという危険性も出てくるだろうから、それは慎重にルールを決めなくてはならないとは思うけれど。その問題も、本人が意思を表明する言葉を残しているなど、明らかに本人の意思であることを確認できるものがあれば認められるなどの条件を付ければ乗り越えられるのではないだろうか。


2017年12月 間アイ



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