最近、コンピュータに特定の芸術家の作品の特徴を学習させて、そこからその作家っぽい新たな別の作品を生成させるというのが話題になってるよね。美術関係でも文学関係でも。亡くなった人が対象だと、その人自身はもう生きていないのにその人っぽい作風の新たな作品をコンピュータが作れる、みたいな。
それ自体は別にいいんだけど、そうやって生成された「誰々っぽい作品」というのは、「その作家が生きていたら出てきたかもしれないような作品」というのとは、まったく違うよ。「ある作家の特徴のみで作品を作る」というのと、「その作家がそういう作品を作る」というのとは全然意味が違う。
以前に聞いた話なのだが、バッハの曲をたくさんコンピュータに分析させて特徴を洗い出させると、どの曲にも何カ所かバッハっぽくない部分(つまり他のバッハの曲に共通する要素がない部分)が出てくるそうだ。だけれど、それは普通に考えたらそうなるのが当たり前だと思う。バッハの曲それぞれにバッハっぽくない部分が幾分か含まれるのなら、むしろそれはとても自然なことだ。
だって作曲者側(この場合はバッハ)から考えたら、今まで自分が作った曲と全く同じような要素しか出て来ない曲なんて作ったって意味ないから、そんなの普通、自分から作ろうと思わないもの。新しい曲を作るなら、それまでとは何かしら違う要素を入れるでしょ。それはバッハじゃなくたって何かしら作品を作る人だったらそうなるのはごく自然なことだと思う。過去の自分の作品に既出の要素しか出てこない作品ばかり作る人もいるだろうけど、それは他人から過去の作品と似た感じのものを作って欲しいと注文されて作る場合か、本人が敢えて似たような作品を様々なパターンで作るという実験をしているか、もしくはネタ切れで過去の自分と同じ発想しか出てこないか、何かそういう要因がある場合だと思う。そうでもなければ、新しい作品を作るたびに、常に過去の自分に出てきた要素とちょっと違う部分を含む作品になるのは当たり前のことだ。
それが積み重なって、最終的に生涯に出来た大量の曲の特徴を後から分析して頻出する要素や幾つもの曲に共通する要素を探っていったら、それは当然、それぞれの曲に何処かしら他の曲とは違う要素が出て来るよね。そして、その部分は他人から見ると「その作曲家っぽくない部分」というふうに見えるというだけだ。
要するに、ある曲のある部分と同じ要素が、その曲以外ではその作曲家の他の曲に見当たらないとなれば、その部分に「その人っぽくない感」が出るから。(本人はべつに自分っぽくないと思ってない場合もあれば、思ってる場合もあるだろうけど。あるいは無意識にそうなったという場合もあるだろうけど。)本人にとっては新しい曲を作るに当たってただ入れた要素であって、特に自分っぽくないとかは思っていなかったとしても、他の曲に同じ要素が出ていなければ他人からは勝手に「その人っぽくない」と判断されるから。
だって、いつも自分がよくやってることとか自分の曲に有りがちな音の運びだけで新しい曲を作ったって、そんなのもう既にそういう曲をたくさん作っていたのなら何のために同じような要素しか出ない曲をわざわざ作るのか分からないもの。仕事でそういうのを注文されて仕方なく作るなら有り得るけど。「あなたの、あの曲みたいな感じのをお願いします」とか発注されたなら過去の作品と同じような感じになるだろうけど。
だからその話の続きは、コンピュータに大量のバッハの曲からバッハの特徴を把握させてバッハっぽい部分だけでバッハみたいな曲を生成させても、そうやるとそれは「全ての部分がバッハっぽくなっちゃう」から、で、本来バッハの曲にはそれぞれに僅かにバッハっぽくない部分が含まれるから、バッハ本人がやるのとは違くなっちゃうっていうことに繋がる。
で、コンピュータに作らせる際にその「バッハっぽくない部分」も再現させるとしたら、そのバッハっぽくない部分を入れる為には何かしらそれを生成するための情報をコンピュータに与えないといけない。だけど、他のどの曲とも違う要素が各曲に点々とあったら、そのバッハっぽくない部分に関しては何を元に生成したらいいかコンピュータに伝えられないが故にその部分はどうにも指示できない。それに関してはバッハ本人がどうしたいかに依るから、どうにも、どういうふうにいつもと違う部分を新しい曲に入れるかということは決められない。それは他の作品などの既に存在している情報から導きだせるものではなく、新しい曲を作る際に、そのとき初めて出てくる情報だから。それは本人にしか分からない。
コンピュータに学習させて作らせる場合には、その学習のもとになる情報が何か必要だ。その元になる情報から共通する要素などを抽出し、コンピュータがその要素を元にそれと似たような別のものを作ることはいくらでもできるけれど、与えられた情報のなかに一度も出てきていない要素を勝手に自分から入れるということはコンピュータはしない。そういうことをさせるなら、そうなるようにプログラムしないといけないけれど、その場合、その部分をどうプログラムするかというのはプログラムする人間が決めなくてはならないことになる。じゃあ、その部分を何を元にどうプログラムするのかとなったら、例えばバッハっぽい曲のなかに何カ所かバッハの他の曲と違う部分を入れるとなっても、それはバッハにしか決められないから勝手に決めるわけにいかない。決めるための材料がない。その人の作品全般に共通の要素があれば、それは誰が分析しても抽出できる明らかなその人の特徴と言えるから、それを材料にその人っぽいものを生成することはできるけれど。
だからバッハの曲から洗い出した特徴を元にして何%の確率でどの機能を持った音からどの他の機能を持った音に進むとかを、バッハの曲でのその確率と同じようにすれば、で、それをリズムとかに対しても緻密にやっていったら、それは当然、とてもバッハみたいなテイストの曲にはなるでしょ。例えば(長調のすべての曲をハ長調に直して考えた場合)、ドが出てくる確率が全体の何%、レが出てくる確率が何%、ミは何%というふうにそれぞれの音の出る頻度を分析して、そしてドからレに進む確率が何%、ドからミに進む確率が何%とか、シからドに進む確率は高いとか、ソからファに進むのは少ないとか、ソからドは多いとか、そういうのを全部分析して、それと全く同じ確率になるような別の曲を作ったら似たような感じになるよ。それはべつにバッハじゃなくても、作風にけっこう一貫している感じの要素があれば、誰であってもその特徴を分析してその特徴だけで作ったらその人っぽい感じにできる。出来るだけ沢山の曲をもとにそのパーセンテージを出せば、より緻密に本人の作品に似た感じにできる。
ただ、じゃあそのターゲットがバッハの曲だった場合、バッハ自身が生きてたらそういう曲を作ったのか?つまり自分の他の曲に出てくる特徴と同じ要素しか出て来ない、「いつもの自分らしい要素」しか出て来ない曲を敢えて作るのか?と言ったら、まあ、普通に考えて本人はそんなことしたいと思わないでしょ。バッハがどう思うかは知らないけど、普通に考えて作曲家とか何かしら作品を作る人だったら、いつもいつも過去の自分がやってきたのと同じ要素だけで作品を作ろうとは思わないでしょ。
だから、それぞれの曲にその人の他の曲には登場しない要素が出て来るのでしょ。それが他人から見ると「その人っぽくない部分」に見えるということ。
そうなるのが当たり前だからそれは当然のこととして、分けて考えればいいことだと思う。単に「この作曲家のテイストが入った、この作曲家っぽい曲を量産したい」というだけだったら、その作曲家の曲を大量に分析させてその特徴の情報を与えてコンピュータに生成させれば済むことだからそれでいい。そういうことが目的なら。
でも、あたかも「この作曲家本人が生きてたらこんな曲が出来たのよー!」「へー(゜∀゜ノ)ノ!」的な、あるいは「コンピュータがその作曲家として新しい曲を作れるようになったよー!だからバッハを登録すればバッハの新しい曲が聞けるのと同じことだよー!」という認識をして、そこを区別しない見方をするのは馬鹿げていると思う。
まあ、将来的にそういうコンピュータを作って売る場合に、ある作曲家のファンみたいな人に「あなたの好きな誰々の曲で新しいのをもっと聴けるよ!」というのを、わざと売り文句にして心の中でイヒヒと思うのなら商売としてはいいのかもしれないけれど。
小室哲哉さんがEテレのスイッチインタビューで、「本当はもう自分がそれまでやってきたのとは違うタイプの音楽を作りたかった時期に、他人からは今までと同じタイプの音楽ばかりを注文されて作らざるを得なかったから、まるで自分が過去の自分の真似をしているようだった」という趣旨のことを語っていた。
過去の自分が作ってきたのと同じような特徴で出来ている曲をずっと量産させられたら、そうなるよね。だから、コンピュータにその作曲家っぽい曲を作らせるっていうのはそういうことだよ。それは、「本人がそういうのを作りたかった」というのとは違うよ。小室さんが言っていることからも分かるように。
でも例えば映像のBGMが必要とかで、何かしら「この作曲家の何年代の感じのテイストが入った、それっぽい曲を入れたい」とディレクターが言っていた場合などに、そこに焦点を合わせてコンピュータにその作曲家のその時期の曲を大量に情報として与えてそれと似た感じの曲を自動生成させる、というのなら役立つ。そういう用途に使うなら。
あるいは悲しい曲ならなんでもいいとか感動的な曲ならなんでもいいなら、そういうのが必要な場面のために、予め悲しいコード進行の特徴や感動を煽るコード進行やテンポやアレンジをプログラムしといて、そういうのを必要に応じて自動生成させればいいのだし。
だから単に混同しなければいいだけだと思う。「ある作家の特徴だけでできた作品」と「その作家本人が作る作品」というのを。
私は文学は知らないけど別にこれは曲のことだけじゃなくて、特定の文学者に関して「この文学者っぽい作品」をコンピュータに生成させる場合でも同じなんじゃないの?それは「その人が生きてたらそういう作品を書いた」とかじゃなくて、「その人のある時期の作品の特徴と同じ特徴を持つ他の作品を量産させることができる」ということであって両者は全然同義ではないよ。
ただ、だからと言って意味がないのではなくて、文学の場合はどういう使い道があるのか知らないけど、少なくとも曲とかだったら何かのBGMとかで「この人っぽいやつを宛てがいたい、でもその本人が作ったやつじゃなく新しいやつがいい」っていう注文がある時に使えるからそういう用途でならとても意味あるけどね。
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話が変わるけど、最近(2017年現在)ちょっとしたものでも人工知能みたいに言われるようだし何処から何処までを人工知能とするかの認識が人によって全然違うから、人工知能の定義が何なのかはっきりするまでは、もしくは人工知能の定義を明確にした上で議論される場でない限りは、もう人工知能って言わなきゃいいとか思ったりする。でもそれでもそう言うのなら私は計算機のこともこれから人工知能と言うことにするわ。
だって、計算機だって人工的に作られたものだし、1+1と打てば2って答えが表示されるんだから、それを計算に特化した知能として位置付けることだってできるものね。そういう意味だったらそういう類のもの何だって人工知能だわ。
何を以て人工知能って言うのだろうね。前に単なるコンピュータでの自動作曲のことを「人工知能が作ったー!」って言ってるのをテレビで見て愕然としたのだけれど、でもその人にとってはそれが人工知能なんだよね。計算機を人工知能と捉える見方だってできるのと同じように。
「幸せ」という状態についての認識が人によって全然違う場合、幸せについて話し合うことにはどんな意義があるかなあ。大富豪になることを幸せと思う人もいれば、自分のやりたいことをやるのを幸せと思う人、人に愛されることを幸せと思う人、美味しいものを食べるのを幸せと思う人、生きていること自体に幸せを感じる人、幸せという概念自体を持っていない人・・・そんなふうに人によって何を「幸せ」の定義とするのかが定まっていない状態、つまり「幸せ」と言われて思い浮かべる内容がそれぞれに全く違っていて共有されていないという時に、その状態で「こういうことをすれば幸せになりますよ!」とか「幸せになるには」とか言われても、全員、前提となる認識が違うから、話がきちんと噛み合わなくなったり、同じことを話していても人によって解釈が全然違ったりしてあまり意味がないのでは、とか思う。
でも例えば、桜の見方はみんな違って何を以て桜を美しいと思うかはバラバラだけれど、でも皆で花見をして、何となくふんわりと「桜の美しさとは」と語らうのも、それはそれで楽しい、という状況も考えられる。人工知能の範囲が曖昧でも、それみたいなことなのだとしたら別にいいのかもしれない。
あと人工知能って言い方は人に誤解させる魔法みたいなものとしても機能するんだろうね。たとえ本来は単なるコンピュータ(もしくはコンピュータのちょっと進んだもの)であり開発した人に依存している面が殆どでも、とりあえずそう呼んでおくことで外部の人には、さもそれが人とか新種の生物みたいな存在に近いかのように錯覚させられる効果があるんだろうね。
現時点では人工知能と言われるものが機能するのは、そう動くように必死でプログラムしてくれている人間の方々がいらっしゃるからだけれど、それを見てあたかも人工知能が空から降ってきたものかのように思い、「人工知能がすごいことをやっているー!(゜∀゜ノ)ノ」と擬人化して捉えるのは、例えば、手品を見てそれを超能力だと思い込むのと似た状況かと思う。本当に超能力ならそれでいいんだけど、そうではなくちゃんと仕掛けがあって必死で手品師が訓練し準備してそう見えるようにしてきたものを、あたかも自然とそうなっているように見ることと同じようなことかと思う。つまり裏側を無視するということ。
でも、そう動くように一生懸命プログラムしてくれている人がいるということを無視して、それ自身が自らやっているかのようなロマンティックな見方をしてくれる人がいるのも、今の内だけなのかもね。今の内しか成り立たないビジネスもあるのかも。だって、これから先プログラミングが必修になるでしょ?
そしたら、いま子供世代の人が大きくなる頃にはもう世の中の殆どの人が、たとえ職業にしていなくとも一応プログラミングの基礎を分かっている状態になるでしょ?そしたら開発者側の視点を想像できるから、もうそんなロマンティックな見方をする人はいなくなってもおかしくないもの。
今はその過渡期なのだろうね。何かしらのプログラミングをやっている人とやったことのない人が混在している唯一の数十年なのかも。それだったら、そのやっていない人達の層が生きていて、今の子供達が大きくなるくらいまでの間にしか通用しないビジネスもあるのかもね。そこの層をターゲットにしたような。
ある意味、着ぐるみのミッキーを本物の生きてるミッキーかのように見てくれている人がいる間だけの、まだその中に実際は人がいて具体的にどんな動きをして表にそう見えているのかというからくりが分かられていない間だけのビジネスチャンスみたいなのもあるのかもなあ。
だって、これは全然違う次元の話かもしれないけど、エジソンが映写機とかいろんなすごいものを発明した後、皆がまだその新しい技術に慣れていなくて驚きが残っている頃に、エジソンの息子が「人の考えを写し取れる機械」を開発したとか言って儲けようとした話とかあるもの。
今となっては「そんな魔法みたいな機械あるわけないじゃん!」ってすぐに気づくけど、でも映写機もその時代の人にとっては真新しい魔法みたいな存在だったかもしれないし、それを考えたら信じ込んでくれる層がいたっておかしくないわけだものね。
そんなふうに、何かしら新しい技術が出始めた時って、それが開発されてから皆の生活に馴染むまでの間、何かしら皆がまだその技術を驚いた目で見ている間にだけ有効なビジネスとかって、いつの時代にもあっておかしくないとは思う。
2017年5月 間アイ
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