◆人類の次の生命体
この地球に生命が誕生して約39億年、そして知的生命体まで至って約700万年が経過した現在、その知的生命体「人類」は、自ら生命を操作する力を手に入れた。自ら生命を改変し、人類をこれまでの人類とは違う状態へと変化させる技術を得たのである。
ならば、人類の次の生命体が登場する日は近いだろう。もうすぐそこまで迫っているのではないか。恐らくここ数十年で、人類の次の生命体が誕生するように思う。今ちょうど、猿から人類に進化した時のように、人類から次の生命体に移り変わる過渡期に入ったところなのではないか。もう数十年後には私は、今私達から見た猿と同じような一つ前の段階の生物になるのだろう。今、700万年も訪れなかった変化がやっと訪れる直前だ。だから今作られている芸術作品などは、数十年後には人類ではない人類の次の生命体にも鑑賞されることになるのだと私は思っている。
生物学者の多くが、人類はこの先そう長くは続かないだろうと言っているようだ。それは専門家ではない一般人の私であっても、今の人類の状況を鑑みれば普通に考えてそう長く存続しないであろうことは想像が付く。でも、だからと言って人類の未来を守りたいなどとは全く思わない。別にこれからさき人類が何千年も続かなくても私は全く構わない。今の私たち人類が続くか否かは、どうでも良いことである。
そんなことよりも、「人類から発展した次の存在を人類が残せるかどうか」が最も大切なことではないか。人類自体は淘汰されても全く構わないが、「人類がいたからこそ誕生できた何らかの存在」は残って欲しい。そしてそこからまた次の存在へと繋がって欲しい。つまり、生命の歴史のバトンが未来に繋がって行けば、最先端の種族は交代して構わない、むしろ交代して行かなくてはならないと思うのだ。今まさにその過渡期にあり、間もなく人類は人類からその次の生命体へと移行するだろう。その兆しが現れるのはもう間近なのではないかと私は思っている。
そしてその人類の次の生物は、半人工半天然の、生命体とコンピュータのハイブリッドのような存在となると私は思っている。脳にコンピュータを内蔵させているとか脳とコンピュータが接続されているとか、身体の一部がコンピュータであるとか。そして遺伝子も予めそのような生物になるように意図的にデザインされた生命体。
だからもう「サル」や「ヒト」のように、その次の生物に何か名前を付けたら良いと思う。世界標準で使える一般名詞としての名前を付けて、サルやヒトという言葉を皆が知っているのと同じように誰でもその名前を知っているような状態になって良いと思う。新人類などではなくて何か全然違う名前を。もうそういう段階ではないか。ヒューマンとコンピュータを合わせて「コンヒューマン」とか。あるいは「ACH」とか。「Artificial Computerized Human」の略称のつもりだ。恐らくもっと良いネーミングがあるのではないかと思うが、本文では人類の次に来る生命体を一先ずコンヒューマンと呼ぶことにする。
そしてここ数十年から百年くらいが、人類が多様性を保てる最後の時間なのではないかと私は思っている。その先に行くとかなり画一化が進むだろう。数十年後から一気に多様性を失うのではないか。人工的に制御された生命体が登場した時点から、もう多様性はどんどん削ぎ落とされ、その種の生物全体が特定のパターンへと向かって行くのではないかと思うから。だからある意味で今の多様性に満ちた人類の世界はとても貴重だ。その残り少ない貴重な瞬間を、今の人類として精一杯噛み締めたいと私は思う。それは微生物に始まり知的生命体まで至り、更にその先へと続く長い生命の歴史の中で、ほんの一瞬しかない時間だ。だから、たまたまその瞬間に出くわした我々知的生命体はとても幸運だと思う。
人によっては、「今まで生命は何十億年もかけて進化してきたのに、ここに来て急にあと数十年で人類から先へ進むわけがない」と思うかもしれない。だけれど、そうとは言えないのだ。なぜなら進化の速度はどんどん加速するから。それは人類の歴史の範疇で考えても分かることだろう。原始人のような状態は非常に長く続いたわけで、そこから文明が開化し現在に至るまで、歴史が進むスパンはどんどん縮まっている。旧石器時代は大変長かったわけだが、そこから縄文時代、弥生時代、そして今のような社会に至るまで、だんだんと次のライフスタイルに転換するまでの時間が短くなっていることが分かるだろう。その時間は今や科学技術の発展と共に一層短くなっている。
2017年現在、あと30年ほどで技術的特異点が訪れると言われているけれど、それは同時に、人類がその先へ進む時期とも間違いなく重なるだろうと私は思っている。だからそれは技術的な特異点というだけではなく、同時に地球の生命の歴史そのものの転換点でもあると言えるだろう。なぜなら知的生命体から先の生命の進化は、その生命が獲得する技術的進化と同期するはずだからだ。新しい技術を手に入れたなら、そしてそれが自らの進化を実現させることのできるものであるならば、知的生命体は自らを次の生物へと進化させるため、その技術を用いるだろう。微生物から知的生命体までは自然の力によって進化を遂げることができても、知的生命体まで辿り着いた後は、なかなか自然にその次の生物へ進化するのが難しいか、もしくは自然な進化よりも知的生命体の技術による進化のほうが先に来るのではないか。
知的生命体は生命の歴史に於ける何かしらの限界点であると思う。この宇宙で生命が誕生したとき、どこの天体で誕生したとしても、それが知的生命体に至るまでの進化の仕方と、そこから先への進化の仕方には根本的な性質の違いが生じるのではないかと思う。
◆次世代の生命体が現れて以降の人類の存在意義
近年、人工知能の技術が進み、人間に人工知能が勝つとか負けるとか、人間と人工知能を対立項に置く見方が蔓延っているように思う。私はその見方は本質的ではないと思っている。それらは将来的に対立するようなものではなく合体し、融合し、最終的に生物と人工知能が合わさった存在が誕生するというのが最も自然な流れなのではないか。人工知能は、未来の人類が「生物とコンピュータの要素を兼ね備えた存在」となることで人類から先へと進化するために登場したものであると私は認識している。今はその前触れの段階だ。だから、どちらかがどちらかに勝つというようなものではない。人工知能は、生命体が知的生命体から先へ進むために必要なものだから、知的生命体がある段階まで到達した時に必然的に開発されるものなのではないか。それは恐らく宇宙のどこの天体で生命が誕生したとしても、知的生命体のある段階まで至った場合には起きることなのではないかと思う。それは次の進化に必要なことだから。それは人工知能が支配するなどということではなくて、生物と人工のものが合体することが必然であるから登場するのだろう。
そして私は、機械に自分の能力が負けるのならばそれは当たり前だから全然気にならない。今の段階でも、計算機のほうが私より遥かに計算が速く正確にできるのだからその意味では私はもうとっくに機械に負けている。むしろ自分ではできないことを補うために機械を使っているのだから機械に負けるのは当然で、機械の方が私より優秀でなければ使う意味が無い。だから、コンピュータのほうが遥かに自分より能力が上回っていても、それは私と同種のものではないから気にならない。たとえコンピュータのほうが私よりあらゆる能力が上回っていても、そのことで私の存在意義が無くなるということにはならない。なぜならコンピュータは生物ではないのだから。別種のものだから。
私はそんなことよりも、自分たち人間の遺伝子を改変できる技術がもう既にあるということのほうを遥かに不穏に思う。今の時点でもう、集中力など様々な人間の能力に関して最高レベルの遺伝子になるよう操作した上で人を誕生させることはできるわけだから。容姿も体質も知能も性格の特徴なども変えられるのだ。倫理的問題でそのような人間が作られていないというだけで技術的にそれはできるのだから、であればもう既に机上の超人類のようなものは存在していて、私はそれに負けている状態なのだ。それなのに自分のような全く最高レベルの要素を持っているわけではない者が生きていく意味をどこに感じたら良いのか。だから自ずと、自分の存在意義は何なのかと考えざるを得ない。自分と同種の生物に負けていると分かっていながら生きて行くには、何をモチベーションにしたら良いのか。
人間の次に来るコンヒューマンは恐らく、コンピュータによって人間の様々な能力を拡張すると同時に、遺伝子も操作して予め様々な能力を高く設定するのではないか。今は倫理的問題で止められているとしても、その状態がいつまでも続くとは考えにくい。いずれ遺伝子の操作およびコンピュータと身体との結合によって、人類の次の生物は誕生するだろう。そうなれば私は過去の生物となる。そうなったとき私は、どこに生存の意味を見出すのだろうか。
猿は人間の一つ前の段階に当たる生物だが、それでも猿は猿で一生懸命に生きている。鳥は鳥で、魚は魚で、みんな一生懸命に生きている。それを支えているものは何か。猿は人間が登場しても生命力を維持しているが、何をモチベーションに生きているのだろう。それは猿に聞いてみるしかないが、一先ず人間以外の動物は本能だけで生きようとするエネルギーを保つことができるということは言えるだろう。そこが人間と他の動物との大きな違いだ。人間には理性があるから「どうして生きるのだろう」などと生きる意味を問うてしまう。何か自分の人生に、生きている意味や価値を見出そうとする。自らに存在意義を求める。それが感じられないと、なかなか積極的に生きようと思えない生物だから。一つ前の生物になっても生きているためには、何か自分が人類として生きていることに価値を見出だせなくてはならない。コンヒューマンが登場する前に、それを見つけておかなくてはならない。
私は少なくとも、自分が人類という地球上の最先端の生命体であることに誇りを持ってこれまで生きてきたように思う。恐らくそのような人類は私以外にも多くいるのではないだろうか。ならばそれが失われたとき、何を拠り所に生きて行けばよいのだろうか。自分たちから進化した次の存在が既にいる状態となり、自分はその一段階前の生物ということになり、新しい生物たちと共存しなければならなくなったとき、私は何をモチベーションに生きるだろうか。これはけっこうシリアスな問題なのではないかと思う。今はまだ差し迫った問題に感じられなくとも、それがリアリティを持って感じられる日は近いように思う。
人類の次の生命体がもし遺伝子を自分たちの意志によって改変していたとしたら、知能や体力や容姿などに関しては皆がとても優れた遺伝子を持って生まれてくることになるだろう。では、そうなったとき、そのような改変を行わず生まれてきた我々は存在意義がなくなるのだろうか。私はそうはならないと思っている。たとえ全ての能力や外見や体質などが劣っていたとしても、「感性」の違いは残るからだ。人それぞれに、その人の感性でしか出来ないことがあるはずだから。
だから人がそれぞれに持っているセンスというのはけっこう尊いものであるように思う。体力や知能に関してはその度合いが高ければ高いほど良いというように考えられるけれど、感性に関しては高低で判断できるものではないから、どんな感性を良いと考えるかは人によって異なる。だからその部分に関しては好まれるものが異なるため、比較的進化の最後のほうまで多様性が確保されるのではないか。
今の人間にも既に、超高知能で優れた体力もあって見た目も良く性格も良い人はいる。仮に未来にはそういう人たちだらけになるとしても、そういう人たち全員、好きな音楽が同じかと言ったら違うし、好きな食べ物が同じかと言ったら違う。服装の好みも、家具や日用品の好みも違うだろう。その人たちはきっと違う映画を面白いと思い、違うブランドを好み、違う場所に旅行に行きたいと思うはずだ。好きな小説家や好きな画家や好きなミュージシャンも違うだろうし、辛いものが好きな人、甘いものが好きな人、モノトーンが好きな人、カラフルなものが好きな人、色々なセンスの人がいるはずだ。だから、センスの多様性だけは最後まである程度、確保されるのではないかと思う。そしてそれがある限りは、全ての人にその人固有の感性があるということになり、それがあるのなら十分その人がいることの意義は保たれるのではないか。
◆多様性の喪失
恐らく、未来の人類あるいは人類の次の生命体が遺伝子を自ら改変させるようになると、遺伝子の多様性が失われ、その種の生物の遺伝子が画一化へと向かっていくのではないかと思う。なぜなら、皆、病気はしたくないし、肥満になる遺伝子やシミになる遺伝子、暴力的になる遺伝子などは要らないと考え、そのような皆が好まない遺伝子は次第に排除されていくだろうから。あるいは外見にしても、美の価値観は地域によって異なるとは言っても今はインターネットやマスメディアを通して情報が世界中に回る時代であり、人々が美しいと思う外見もかなり共通項を持ってきているように思う。だから容姿に関しても、皆が好むものが一つのタイプとまでは行かなくとも、だいたい幾つかのパターンに限られるということは起こり得るのではないか。そして当然、集中力はないよりもあった方が良いとか、知能は高い方が良いということになるだろうし、視力も良い方が好まれることになるだろう。そうなると、体質や性格や容姿や能力などに関して、現在残っているかなりの遺伝子が自然淘汰ではなく人為的に淘汰されることとなるのではないか。
すると遺伝子はどんどん一定のパターンに向かって行くこととなり、遺伝子レベルでは全ての能力が最高で性格に問題がなく見た目も良いという、かなり似たような人だらけになるのではないか。となると、皆似たような最高レベルの人ばかりになるため、その生物の個別性はどこに宿るのかという問題が生じ得る。そのとき最後に残る個別性が、私は、感性と記憶(経験)なのではないかと思っている。その領域だけは個別性が保たれるのではないか。ただもうその時には、個別性を保とうとする今の私のような価値観自体が、遠い過去のものとなり淘汰される可能性もあるが。コンヒューマンが確実にコンピュータと生物とを合体させたものになる頃には、彼らは何か今の私とは全く違う価値観で自分たちの存在意義を捉えるのかもしれない。ただ、現在の人類世代として生まれてきている私は、遺伝子が操作され機械を内包したスーパーな能力を持つコンヒューマンが登場した後も、人類として自らに存在意義を感じられる状態でいなければならない。だからその為には何かしらの拠り所が必要だ。
感性の違いは残るのだとしたら、例えば芸術作品の多様性は保たれるのだろうか。私はそこもかなり、今より限定的になる可能性があると思っている。なぜなら多様な感性は、多様な身体的特徴や多様な精神的特徴に依っているところが大きいからだ。もし、全員が健康で体力があり知能が高く冷静で前向きな人になった場合、そこから生まれる感性も限られたものとなるだろう。なぜならそうでないタイプの人から生まれる感性が削ぎ落とされてしまうから。
鬱病にはならない方が良いということでそうなる可能性を遺伝子レベルで出来る限り排除したり、ネガティブな考え方に陥らないよう前向きな性格になるよう遺伝子を設計したとして、そういう人が多くなり暗い人が淘汰されていった場合、確かにネガティブなものの見方はなくなり明るい世の中を築けるかもしれないが、そういう見方を持っている人にしかない発想が失われることになる。悲観的な感性を持っている人からしか生まれない発想もあるだろうから。皆が楽観的に考えているときに、悲観的見方をする人が重大な欠陥に気づいて指摘してくれるということもあるだろう。あるいは心配症で怖がりな人だからこそ小さな危険性も見逃さずに発見できるということもある。だから、臆病なことが必ずしもマイナスになるとは言えない。また、暗い人や悲観的な人の持つ世界観もあるわけで、それが別なタイプの人にとって新鮮なものであったり、発見や感動を与えてくれるものであったりすることもある。
私は視力が悪いのだがコンタクトを使っていて、どれだけ面倒でもレーシックの手術は受ける気になれない。その理由はレーシックの技術を信用できないからではなく、視力の低い状態で見える世界を失いたくないから。私は両目とも0.1に満たないのだが、裸眼で夜景など暗闇の中で光るものを見ると、全体がぼやけて大変美しく幻想的に見える。視力が良くなってしまうと、その世界を失うことになるのだ。その景色、視力が非常に弱いことで見える景色に感化されて出てくる発想やセンスもあると思う。あるいは目の見えない人には、そういう人にしか感じ取れない世界が何かあるはずだ。実際、目が見えていない人は音色の違いや音の方向性に非常に敏感だったりする。耳の聞こえていない人も恐らく、音のない静けさのなかに生きることでしか出てこない感性を持っているのではないか。だから、人間の持つ何もかもの機能の度合いが最大限に高ければそれが良いとも言えない。ある機能を持っていないからこそ見える世界や、持っていないからこそ感じ取れるものがある。そしてそこから育まれる個性的な感性があるから。
それは精神的なことにも言える。鬱病になるような精神を持っている人でないと発想できないこともあるだろう。実際、創造的で個性的な作品を残した芸術家には精神疾患を持っている人も多いのだから。あるいは小説家に自殺する人がいたとしても、もしその人が自殺を考えないような楽観的で精神的に非常に健全な人だったのなら同じような作品を書けたのだろうか。そうではないだろう。疾患と言われるような、普通に考えたらそういう因子を持っていない方が良いと思われるものを持っているからこそ生まれる素晴らしい作品もあるはずだ。皆が精神的に健全で生きて行くのに全く問題ない状態だったのなら、恐らく殆どの優れた芸術は生まれていないと言っても過言ではないだろう。
感性の差異は、たとえ能力や身体的特徴などが画一化されても残るだろうけれど、でもその能力的側面や身体的側面での遺伝子の淘汰が促進すると、結果的に画一化は感性の領域にまで達するのではないかと私は思う。その際、芸術や創作あるいは哲学・思想の分野にはかなり影響が出るのではないか。その結果、出て来る芸術はかなり限られた範囲のものになることが考えられると思う。あるいはもう、コンヒューマン達は多様な感性による多様な芸術など求めないかもしれない。本人たちの感性自体が統一化されていたのならば、その感性で求めるものも似たようなタイプに限られるだろうから。
果たしてそのような世界が訪れる時まで今生きている我々の寿命が続いているかどうかは分からないが、もしそれに近い状態がそう遠くないうちに訪れるとしたら、これから数十年の間に生まれる人類の子供世代はその生物たちと一定の時間は共存していかなくてはならないかもしれない。そうなったとき、その最後の人類世代は何を考え、どのような心地で生きるのだろうか。それは現段階では計り知れない。
これまで私たち生命は、進化の過程でいろいろなものを失った。例えば人間は理性を獲得したが、それまでの動物が持っていた本能的な能力はいろいろと失った。それと同様に、人類から次に進むのならきっと、進化すると同時に失うものもあるだろう。次の進化では恐らく多様性が失われるのではないかと思う。このまま人類が自分たちの技術を自分たちの進化の為に用いるのだとしたら、今のゲノム編集など遺伝子工学の技術は、多様性の喪失へと繋がっていくのではないか。けれど、果たしてそれは「進化」なのだろうか。生物の側の判断で「良い」と思われる遺伝子、好まれる遺伝子を意図的に残していくこと、そうやって遺伝子が淘汰され画一化へと向かっていくことは、進化なのだろうか。私は決して、遺伝子を操る技術を否定したいのではない。その技術自体は素晴らしいのだ。ただ、何も考えずに自分たち人類の幸福を優先にそれを用いると、将来的に人類から先に繋がるはずの未来が何らかの形で早いうちに閉ざされるのではないかと危惧しているのだ。
このまま行くと恐らく、現在地球環境に起きていることと同じことが、数十年後には遺伝子で起きるのではないかと私は思っている。つまり、自然にではなく、人工的な原因で問題が急速に進むということ。何も人工的なことをしなかった場合、自然に生物が生活することで自然に環境が汚染されたり、自然に資源が減るのであればその程度は少なくて済むが、産業が発達し車を使ったりエアコンを使ったりして様々な産業廃棄物を排出すると一気に環境汚染が加速される。地球が今よりもっと高温だったときもあるとは言っても、それは自然な現象であって人工的に温暖化が加速された状態とは違う。人工的なことをしなくともいずれは自然に少しずつ環境は汚染されるわけだが、ひとたび人工的なことをするとその速度は急激に増す。今、人類によってその状況が引き起こされているわけだが、それと同じことが今後遺伝子で起きるのではないか。自然に従ったとしてもいずれ淘汰されて行く遺伝子はあるだろう。ただ、自然のままにした場合には緩やかに淘汰されて行くものだ。残る遺伝子と消えていく遺伝子が、自然の力によって非常にゆっくりと選別されていく。しかし、人工的に生物の側が遺伝子を選別したならば、とても速いスピードで特定の遺伝子の淘汰が引き起こされるだろう。
将来的に淘汰されるべき遺伝子もしくは淘汰されても問題ない遺伝子と存続すべき遺伝子というのは、それを選別する時点での生物の側からは判断ができないことなのではないか。生物の側の意思としては必要ない、むしろ無い方が良いと思える遺伝子であっても、もしかするとそれはその種の生物が生き残って行くうえで必要なものかもしれない。それは自然の側にしか分からない、生物自身には分からないことなのではないか。
あるいはマイナスに思われる要素があるお陰で他にプラスな影響をもたらす場合もある。例えば、泥棒がいることでセキュリティの技術が向上する。その技術が他のことにも生かされる可能性を持つこともある。あるいは泥棒がいることで皆の緊張感が保たれ、人々の注意力や警戒心が衰えずに済むなどの効果もあるかもしれない。泥棒は根絶したほうが治安は良くなり皆の平和のためになるように思えるが、果たして本当にそういう悪い人が一切存在しなくなった世界が最も理想的なだろうか。私は決して悪を肯定している訳ではない。ただ、ほんの僅かな悪がこの世にあることで発展するものや保たれるものもあるのではないかということだ。世の中には善人ばかりではなく、一定の割合で普通の人は思いも寄らないような悪さをする人間も存在するわけだが、もしそのような人の遺伝子が必要なかったのなら淘汰されていても良いはずだ。でもそういう人の遺伝子が残っているということは何か理由があるのだろう。
ほんの僅かな悪という意味では、ウイルスなどもそうだろう。風邪になるようなウイルスは、風邪を引いたときの苦しみを考えれば無いほうが良いようにも思えるが、そういうウイルスが僅かに身体に入ることで、身体がそれに対抗して抗体が付く。それを繰り返すことで、より強い身体になっていく。だからウイルス自体は悪いものに思えても、もしあらゆるウイルスがこの世から消え去ってしまったら抗体も付かなくなり、生物の身体はどんどん弱くなっていくのではないか。だから一見悪いように思えるウイルスも、多様性のなかの一つとしてこの世に必要なものであり、地球全体の健全な営みに貢献しているのだろう。
あるいは全員が最高レベルの知能を持つことが最も理想的なのだろうか。そうなれば皆が何の勘違いもなく正確に物事を理解できるようになるわけだから、人との会話はスムーズになりコミュニケーションはとても快適になるかもしれない。少なくとも知能の差が原因で誤解が生じるとか、知能に大幅な差がある人同士のやり取りで上手く相手に意味が伝わらず困難が生じるなどの問題は解消されることになる。だけれど、もしそうなったら失うものも多いように思う。通じない困難さがあることで、そこから学び取れることがあるから。それがあることによって「他人に合わせる能力」や「他人の視点に立つ能力」「他人に対する思いやり」や「他人との違いを受け容れる力」などが培われるように思う。それだけではなく、きちんと理解できていなくて勘違いしてしまったことが予想外の創造性を生み出すこともある。最高レベルの知能を持った場合、そういう創造的な誤解が生じる頻度も恐らくかなり低くなるのだろうと思う。
知能のことだけではなく、身体的な能力や性格など様々なことについても同じようなことが言えるのではないか。今の人類は多くの場合、何かの能力に長けていながら一方で不得意なこともあるという状態だと思う。皆それぞれに秀でている部分が違う。不得意なことも違う。だから、自分と異なる人と接することで自分には想像も付かない経験をすることができる。自分と同じような人しかいなかったら経験できないことが経験できる。自分だけでは発見できないことが発見できる。そう思うと、しばしば自分と違うタイプの人と通じない部分があったりしてコミュニケーションに困難が生じるような経験も、それがあることで自分にはない他人の特徴や気持ちを学んだり、自分では思い付かない発想を与えてもらえたりできるのだから、貴重なことなのだと思う。もしかすると未来の世界ではそんな困難もなく、全員が高い知能を持っていて理解力があり、誰もが他の誰とでも普通にスムーズに会話できてしまうことになるのかもしれないから。誰とでもスムーズに思っていることが通じたら身に付かないものもあるのではないか。経験でしか培えないものもあるのではないか。だから一定の遺伝子が同一化することで経験できなくなることも生じるはずだ。
そして、後天的に経験したことというのは後世の遺伝子に影響をもたらすのだから、思いがけない経験に接する機会が失われれば、その経験によってもたらされたかもしれない次世代の遺伝子への影響もなくなる。そうなると一層、遺伝子の種類が限られたものとなっていくのではないか。
◆進化をもたらす外的要因を与える装置
それから遺伝子を生物の側が人為的に選んでいくことになると、予め決めた通りの結果しか出なくなり、自然から偶然に与えられる思いがけない魅力というのが削ぎ落とされることとなるだろう。我々の想像を超える、思いも寄らなかった突然変異のようなことが起きなくなってしまうのではないか。
これまで生命は、思いも寄らなかった偶然がきっかけで進化してきたと言っても過言ではないだろう。我々生命の側が思い付くことは生命の想像力の範囲内に留まる。しかし自然から偶然に与えられる現象はその範囲を超えている。生命が自分たちのことを自分たちの意図した通りに操作できる技術を手に入れたなら、一見それは幸せなことにも思えるが、そうなれば逆にそれは「自分たちの思い付く範囲内の操作しかできない」ということでもある。つまり自分たちの発想を遥かに越えた現象が起きなくなる。そうなると、その後の進化の幅が、その生物の想像の範囲を越えられないのではないか。
ただそれに関しても、そういう生物の発想の範囲を超えた突然変異のようなことが起きるようにコンピュータに計算させて、生物が思い付かない遺伝子の組み合わせをコンピュータが提案することで乗り越えるという可能性もあるが。そして、それまで自然の力によって起きた偶発的な出来事が起きる確率がコンピュータによって管理されるということも考えられるだろう。つまり、それまで進化に際して偶発的な出来事を招く要因となってきた「自然」という装置が、「コンピュータ」に置き換わるということ。もしそれができるのでれば、その設計に成功すれば生物はその後も進化を続けて行けるのかもしれないが、それはどうなるのか今の段階からは全く分からない。
ただ、いずれにしても生命体が自分たちで遺伝子を決めるようになってしまったら、何かしら自分たち以外の外的要因で次のステップに進化することができなければどんどん衰退して行くのではないかと私は思う。それを回避する為には、つまり遺伝子自体を生物が決めるような世界でも次の大きな進化に至るような革命を引き起こすのだとしたら、可能性としてコンピュータを使うことしかないのではないか。生物が進化するには、その種の生物から次の別なものへ大きく飛躍することが必要だと思うが、その為には何かその種の生物内部の発想を超える外的な装置が必要だと思うから。
それから話は少し変わるが、人類は次の氷河期を乗り越えられないのではないかという議論がある。けれど、それは人類もしくは人類の次の生命体自身が乗り越える必要はないように思う。氷河期には人類もその次の生命体もいなくなったとしても、人類もしくはコンヒューマンが作った「生命自動生成ロボット」のようなものがあれば良いのではないか。コンヒューマンが絶滅する前にそのロボットを作っておけば良いと思う。そのロボット自身が生命を作れるようにすれば良いのだ。もしくはそのロボットが、生物を作れるロボット自体を自分で作れれば良い。医者や生物学者と同じことができるようなロボットがあれば良いのではないか。そして超低温でも耐えられるように設計すれば良いのではないかと思う。遺伝子の操作と、コンピュータとの接続ないし合体により人類より格段に能力を拡張させているコンヒューマンならば、今の我々には想像も付かないロボットを作れて不思議ではないし、更にそのロボットが自らを自らの力で進化させて行ければ、我々が全く思いも寄らないものを作ってもおかしくはないだろう。そうなれば人類の遺産はコンヒューマンへ、コンヒューマンの遺産は次世代のロボットへと受け継がれ、その後はそのロボットが生み出す者たちへと、きちんと人類から脈々と続く生命のバトンが受け継がれるのではないか。
◆人類の先へつなげるために必要なこと
ただ、その前に人間が地球の食べ物を食い潰したり資源を使い尽くして人間自身が文明を維持できなくなることも考えられるが。科学技術で人工的に食べ物を無限に生産することができるようになる可能性もあるとしても、その準備が整う前に食料が尽きる可能性もあるのだし、永久に持続可能な資源を活用するライフスタイルへシフトするより前に資源を使い切ってしまうことも考え得るのではないか。あるいは、人間から先に進化する前にオゾン層が薄くなり過ぎて、それに適応できる皮膚に進化するより前に皮膚が持たなくなる可能性もあるのだし、地球以外に移住する準備ができる前に環境汚染が激しくなるほうが早く、どこにも住める場所がなくなるということも考え得る。それ以前に世界的な核戦争が起きてほとんど絶滅に近い状態になるということもあるかもしれない。いくらでも、無事に人類から次の生命体に進化できない可能性は思い付く。だから、そちらの可能性を常に視野に入れて、その危険性を加味した上で議論を進めなければならないと思う。
恐竜が絶滅したのは巨大隕石のせいだけではない。環境に適応できなかったからだ。巨大化した恐竜たちは、植物など他の生物や地球環境の維持に必要なものを食べ尽くしてしまうから。環境全体に相応しくない行いをする恐竜たちが生きていると、生態系全体が持たなくなる。だから淘汰されたという側面もある。人間にもそれと同じことが起きておかしくないのだ。いくら文明を発展させて人工的な技術を手に入れても、地球全体の環境に適応できなかったらその生物は最終的には地球から排除されるのだろう。
どんなに自然を人工的に操作する技術を手に入れても、自然それ自体の調和を図っているエネルギーには勝てないのではないか。それは神様のようなもので、何か全体のバランスを崩すものが現れたら淘汰されるようになっているのだろう。だから、全体のバランスを崩さない範囲の中で人工的なことをするのなら良いのだと思う。でも人間が全体のバランス自体を崩す要因になっていたら、それはもう、いくら人間の人工的な力で何とか自分たちを存続させようとしても限界があるのではないか。自然に敵わないというより、自然を動かしている根本的な法則は変えられないということなのだろう。この宇宙を司る法則には逆らえないということなのだと思う。その法則を作っているのが、バランスを図るエネルギーのようなものなのだと私は思っている。
では、人類が次の生物にきちんと生命体の歴史を繋げていくために必要なことは何なのか。それに必須の要件は、当たり前のようなことだが以下のようなことなのではないか。
・世界の人口をこれ以上、増やさないこと。
・世界的な核戦争を起こさないこと。
・環境汚染をこれ以上、拡大させないこと。
・資源を使い尽くさないこと。
これらを全てクリアできなければ、人類から繋がったかもしれない全ての歴史が台無しになる可能性が高くなるだろう。人類から続く未来の生命体や未来のロボットなどは、全て、これらが無事にクリアできた場合にのみ存在可能だというくらいに思っていたほうが良いのではないか。それらが誕生し繁栄するより前に、人類が環境や生態系全体の秩序をぶち壊したのでは全てお終いだ。だから、今から数十年後もこの地球上にいるであろう年齢層の地球人皆が、このことを自覚しなくてはならないのだと私は思っている。
核の危機については皆が感じているように思う。でも人口増加の危機についてはそこまで耳にしない。日本だからなのだろうか。日本人は減っているから。でも、世界的には増え過ぎて大変深刻な状況であることはよく理解しておくべきなのではないか。今は人類規模で生物が次の段階に進む時なのだから、国単位ではなく地球単位で考えなくてはならない。生物全体の単位で考えなくてはならない。自分の国だけが大丈夫ならばそれで安心というような状況ではない。日本は人口が減っていることのほうが遥かに深刻な問題となっているわけで、それはそれで解決させなくてはならない重大な問題とは思うが、それと同時に地球の皆で環境と人口の問題を強く意識しなければならないのではないか。
それらの問題を乗り越え、めでたく人類から進化した人類の次の生命体を見れる世代は極めて幸運だと思う。だから数十年後もこの世にいるであろう今の子供たちや若い世代はとてもラッキーなのではないか。その世代がちょうど、純粋な人類の最後の世代として次の生命体にバトンタッチする瞬間に立ち会えるところに位置しているかもしれないから。そうであれば少なくとも、ここ700万年間で最もラッキーな瞬間に位置している人たちということになるだろう。ということは、それだけ負っている責任も大きいだろう。つまり、ちょうど境目にいるから、人類を無事に次の生命体に繋げるという大役を任されているようなものだから。まずそのことを私は自覚したいと思う。恐らく、純粋な人類は私たちあたりで最後なのではないかと私は思っている。あとは地球の最先端の生命体としての役割を、次の生命体に受け渡す。
ただ、私たち自身が手術して自分の脳に何か植え付けたり、様々な機具やコンピュータで身体の機能を拡張させたりもできるだろうから、そうなったら私たちの世代も、もうナチュラルな人類ではなくなるのだ。というか現在でも既にそれに近い状態ではあるだろう。ある意味で今生きている私たちの世代が、「ナチュラルな人類」としての時間と、次の生命体に近いような人工的な改変を施した「人類ダッシュ」のような存在としての時間の両方を経験することのできる、唯一の生命体なのかもしれない。ちょうど、猿から人類になる時に、猿からほんの僅かに人間に近づいた類人猿のように。まだまだ見た目は猿っぽいけれど二足歩行できるとか。そのような感じで今の人類も、まだまだコンピュータと生命体の半々ではないけれど、そして遺伝子それ自体は意図的に設計されたものではないけれど、身体の一部がコンピュータと繋がっているとか、一部、次の生命体に近い部分を携えているような存在にはなれる可能性が大いにあるだろう。
それから、人類以降の今後の展開は、生物学や工学など様々な観点から考えなくてはならない。だから何か一つの視点のみに偏った未来像については、それをそのまま鵜呑みにすべきではないかと思う。生物学の観点のみから語られる未来については、それも正しい一面があるものとして捉え、工学の観点のみから語られる未来についてもまた、ある一面として捉えた方が良いのだろうと思う。あるいは地球以外の場所に移住する計画をしている人達にはその分野の人達の観点があるだろうけれど、それも未来に関するある一面に過ぎないから、全てを総合的に捉える必要がある。また、メディアが盛んに取り上げるのは現在の我々の生活や経済に直接関係することに偏る傾向があるから、それを踏まえた上で情報に接しなくてはならないと思う。今、遺伝子工学など人工的に生命を操作する技術もあれば、人工知能や、身体とコンピュータを結びつける技術もある。それらは確実にどれも、人類から先の未来の生命体に深く関係するだろう。だからコンピュータの側と生物の側、両方の側面から未来について考えなくてはならないと思う。
近年、メディアでよく人工知能について取り上げられている。人工知能は確かに社会を変える重要な存在だ。だけれど今、社会が変わるどころではなく、生命体それ自体が次に進化する兆しを見せているように思う。それは人工知能の進化とも同期するだろう。人工知能は雇用の問題にも関わるし生活に密着した問題だからリアリティを感じやすくメディアなどで注目され易いのかもしれないが、更に大きな変化がその背後にあるのではないか。もう人類自体が生物として次の段階に進む直前まで来ている。700万年続いた人類の歴史が、今、まさに、ここ数十年で次の一歩を踏むのだろう。そして未来の生命体に続いていく大きな歴史の幕を開けるだろう。
それは第何次産業革命どころの話ではない。生物自体の進化の話だ。新しい科学技術の話ではない。魚から蛙に進化するとか、そういう類の話だ。次の生物に至るのだから、それは今までの医療技術の革命などと全然レベルが違う問題だ。遺伝子自体を変えるのは全然、医療だけの問題ではない。これは医療の革命とか科学の革命ではない。地球の生命の歴史全体に於ける革命だ。バクテリアから人類の先まで続く、地球の生命体の歴史すべてを含めた規模での革命だ。今がその時。それが起きるのがここ数十年なのだ、きっと。
だからそのことについて皆どう思っているのか私は知りたい。この時期を乗り越えるために必要なこと、人口増加抑制の話や地球の未来のことなどをもっと皆で日常的に話題にできる風潮があったほうが良いのではないかと私は思う。これは私なりの見解に過ぎないので、ここに記してきたことがそのまま起きるわけではないかもしれないが、これは決して遠い将来の話ではなく、ここ数十年に差し迫った問題だろう。人類の次に来る生命体が登場する日は近いことや、その生命体が登場したときにどう共存していくのか、その生命体をどう設計すべきなのかなどは、今のうちに人類同士で話し合っておかなければならないのではないか。39億年程も前の小さな生物に始まり、我々人類まで至ったこの生命のバトンを、確実に人類の先へと繋げていくために。
2017年10月(11月追記) 間アイ
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