私はときどき、私たち人間に起きていることのなかで、何がこの宇宙のどこで生命が発生しても必ず起きるような普遍性のあることで、何が我々地球の知的生命体に特有のことなのだろうかと思うことがある。
なぜなら、もし宇宙のどこで知的生命体が発生しても必ず通るべき道ならば、それは宿命のようなものであり避けられないが故に抵抗する必要もないことだけれど、もし我々にだけ起きていることならば、もしくはそれが起きる場合と起きない場合のパターンが複数あるのであれば、それは必然ではないわけだから、それならば我々の意志とヴィジョンによって選択可能であるはずだから。そのどちらなのかが気になるのだ。
とはいえ我々は今のところ我々以外に知的生命体のいる天体の例を見つけていないので、何に普遍性があり何がそうでないのかは推し量るより他ないのだが。
ある天体に生命が誕生し、次第に発展を遂げて文明を築いたとき、最初にそれぞれが独自の文化を作りそれぞれの生活を営み、その後、それらが互いの存在を知ってからはそれぞれの文化の間で対立や闘争が起き、皆が自分たちの正しさを主張するようになり、そしてその後、そのままではいけないと互いの存在を認めようとする価値観が生まれ、多文化主義のような考え方が台頭し、多様性が重んじられるようになり、そしてその後、その多様性は一つの大きなものの内に取り込まれたり大きな集合体と化したりして、多様性全体を包括するようなものが知らず知らずの間に台頭し、世界全体が大きなユニットのような状態へと向かう、ある種、世界が一つの大きな生物のようなネットワークを持った塊となっていくというのは、宇宙のどこの天体で知的生命体が発生しても同様に起きることなのだろうか。
多様化していたものがいつの間にか纏まって大きな一種類のものと化していたり、多様さの細部が削ぎ落とされてどんどんシンプルな状態へ向かい、多様だったものが一様なものに変化していくというのは、何かこの宇宙全体に働いている道理による現象なのだろうか。
いったん多様化してその後、画一化することが宇宙の普遍的な原理に基づくことならば、企業も顔も遺伝子も国も言葉もスッキリと画一化されていくのが自然の道理なのだろうか。
イオンだらけになることもマクドナルドだらけになることも、整形で整った形の顔ばかりになることも、地球では今のところそうなってはいないけれど遺伝子の操作である一定の遺伝子ばかりが残っていくことも、国と国が統合され大きなユニットとなることも、世界政府を作ろうと企む動きも、「やばい」や"awesome"だけで済ませられる会話も、すべては細々した違いの淘汰や画一化、種類の削減、ワンパターン化、即ちスッキリさせる方向へ向かうことに違いはないわけだから。
それはどこか、エントロピーが大きくなることに似ている気がする。完全に画一化されたら、それがエントロピーの最大値で、それ以上はもう動かなくなるようなことに見える。そして一旦そうなると、もうそこから逆には決して戻せないようなことに見える。
きっとこのエントロピーの増大は宇宙全体にも我々の身体にもコーヒー牛乳などの物質にも起きるものであって、だとしたら、もし画一化に向かうことがそれと同じような必然ならば、どの天体で知的生命体が生まれ繁栄したとしても、画一化に関しては同じ運命を授かっているということになるのだろう。
多様だったものが最終的には混ざったり削ぎ落とされたりしてすっきりしていくことは、例えばコーヒー牛乳が、コーヒーと牛乳を混ぜたときに最初は複雑なマーブル模様となり多様な曲線を描いたあと、複雑さが一定のレベルを越すと一気に、それまでの複雑な模様が嘘のように均質な薄い茶色になるのと同じく、ある種のエントロピーが最大化するということなのではないか。
まあ、個々のディテイルが削ぎ落とされて全体が一つの大きなものに取り込まれたり全体が均質化していくという動きは、物質の煩雑さの度合いが増大することとは別種の動きかとは思うけれど、それにしても何か自然の根本的な道理の中に、多様さが一定の域を越えるとある段階で一気に全体が均質化し、それ以上は変動しなくなるという法則があるのではないか。
それは個々の天体で育まれる生命の歴史にも当て嵌まるのかもしれない。我々の身体や個々の物質に働いているのと同じものが、生命の歴史全体にも働いていておかしくはないから。多様な文化がバラバラに存在し、それぞれ細分化し、多様さの度合いが大きくなり、ある一定のレベルに達すると文化が一気に画一化する現象が起きるということが、知的生命体まで辿り着いたすべての生命に共通する運命であるという可能性もあるだろう。ただ、そうかどうかは他に知的生命体のいる天体を知らないので確かめる方法がないが。そして今のところ地球はその状態にまでは達していない。多様さが確保された状態ではある。しかし、日に日に画一化へと向かっているように思う。
いったん世界が一つのまとまりと化してしまうと、恐らくもうその状態で世界の動きが安定し、それ以上は動かないことになってしまうだろう。それはいわば文明のエントロピーが最大化したような状態だから。そのことを私はずっと危惧してきた。私は、多様な異なるものが存在し、互いに同調したり対立したりしながら関係性を保ち、互いのバランスを図って常に揺れ動いている状態が、最も世界が生き生きとしていられる健全な状態であると思っているから。今の状況から考えると、だんだんとその状態が終わりに向かい始めているように思う。
私はその流れに抵抗しようとしてしまうが、もしもそれが宇宙全体に働いている共通の摂理によるものであり他の天体の知的生命体も同じ運命を辿っているのであれば、受け入れるより仕方がないのだと思っている。
いずれにしても世界が何らかの形で一つのまとまりに向かう様子を見せ始めたら、地球単位でグローバルな視点ではなく、宇宙規模でのグローバルな視点が必要なのではないかと思う。我々地球の範囲内で自然な状態が何なのかではなく、宇宙全体にとっての自然が何なのかという視点から考える必要があるのではないか。現在の世界の動きに身を任せて良いのか、そうでない状況を目指すべきなのかを判断するうえでは、もう我々人類という地球に特化した知的生命体だけを視野に考えるのではなく、宇宙に色々いるであろう全知的生命体たちの世界に共通することが何なのかという視点も想定しないと見えてこないものがあるように思う。たとえ我々以外に知的生命体が見つかっていないが故に他と比較することはできなくとも。
何が宇宙全体に働いている摂理による避けられない必然であり、何がそうでないかを想像するだけでも私は意味があるのではないかと思う。それは自分たちの未来を見失わないために。自分たちで選択可能な未来があるのなら、それを自分たちの意志とヴィジョンによって選択することができるように。
2017年6月/9月 間アイ
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