結婚をしない人の、もう一つの理由

よく言われる、結婚をしたくない人の理由として、「一人で自由にしていたいから」とか「仕事をバリバリやりたいから家庭は持ちたくない(女性の場合)」とか「同性愛者だから(同性婚が認められていない国や地域の場合)」とかがあると思う。

でもそれ以前に、「結婚という概念がないから」というのもある。自分の場合は、自分のなかにそもそもそういう概念自体がないから、「したい」とか「したくない」というのもない。自分のなかには「結婚というもの自体が存在しない」みたいな感じ。それ自体知らない、なんですかそれは?みたいな感じ。そういう人も時々いると思うのだけれど、なぜかあまりそういう理由が結婚しない人の理由として話題になっているのを聞いたことがない。あまりにも理由として然り気無さすぎて目立たないのだろうか。

例えば、ホヤを一度も食べたことがなく、そもそもそういう食べ物を知らないという人に「ホヤを食べてみたいか、食べたくないか」と聞いても、意味が分からないと思う。そういう感じ。あるいは存在は知っていても、そもそもホヤを食べるという文化がなく、まさかそれを食べるなどということは考えたこともない、という感じ。

私は自分のなかに結婚という概念がなかったので、子供の頃や10代、20代の頃に人から「いずれ結婚したくないのか」と聞かれたとき、いつも「結婚は一生しない」と答えていた。「したくない」とか「できない」とか、そういうこと以前に、もう「そういうこと自体が考えられない」という感じ。だから、もし「したい」か「したくない」かの二択で答えるとしたら「したくない」に入る。でもしたくないという以前に、「私の文化には結婚というものは存在しない。だからしないのが自然なこと」ということ。

今はもう、自分の周りの友人なども私が本当に結婚をしないのだと分かってくれているけれど、子供の頃や学生の頃は、「今は結婚したくないと言っていても後で変わるかもしれないし」と思われていたそうだ。でも本当に実際、いつまで経っても結婚しないから、「本当だったのだ」と思ったようだ。そう思われていたことは後から知ったけれど、私にとってはもう、結婚しないというのは変わるものではなく、それは意思というよりもそもそも結婚自体が自分のなかに存在しないということなので、変わるということも有り得ないのだ。それは、黒い目を持つ遺伝子を持って生まれてきている自分が、あるとき突然、青い目に変わったりしないというのと似たようなことだと思う。変わるようなものではない。もし、「結婚という概念自体は自分のなかにあって、でも今はしたくない」という人であれば、何かのきっかけで「やっぱりしたい」と思うこともあるかもしれないけれど、自分の場合はそういうのではなかったから。だから、一回しないと言ったら、まさかそれがいずれ変わるかもしれないものだと思われることがあるとは、思ってもみなかったのだった。

自分にとっては、結婚しないのがデフォルトというか、それが普通のことというだけだ。だから、そういう人にとっては、結婚するのがデフォルトである社会のなかでの、「結婚したくないの!?え!なんで!?」というのは、例えば「目玉焼きにメープルシロップかけないの!?なんで?ふつうかけるでしょ」と言われるのと同じ感じだ。自分は、「目玉焼きには塩か醤油かソースをかけるのが普通で、まさか目玉焼きにメープルシロップをかけるという文化があるとは思ってもみなかった。そういう文化があると知っても、自分はその文化を持っていないので、それはしない」ということ。だから、「なんで目玉焼きにメープルシロップかけないの?」と言われても、「そういう習慣が自分にはないから」「自分にとってはかけないのが普通だから」というだけだ。

あるいは周りが全員、鞄に小さなお地蔵さんを入れて持ち歩いている世界に入ってしまい、でも自分はまさかそんな習慣がその世界にあるとは思ってもみなくて、あるとき「え!?お地蔵さん持ち歩いてないの!?そんな人いるの!?」とびっくりされたとしても、「いや、自分の世界にはそういう習慣がなかったから、持ち歩かないのが普通なんだ」というだけだ。「え!?結婚したくないの!?」というのは、それととても近い。

だから「自分と社会のデフォルトが違っていた」「自分の文化と自分がいる社会の文化が違っていた」という感じだ。

私は幼い頃から長い間、世の中での普通について勘違いをしていて、結婚したい人と結婚したくない人の割合は、だいたい半々くらいなのだろうと思っていた。なぜなら自分は結婚をしない又はしたくないから、そういう人もけっこうたくさんいると思っていたから。だから人から結婚について聞かれ「結婚はしない」と答えた際に時々驚かれるのを、「なんで驚く人がいるのかなあ」と不思議に思っていた。「自分は結婚はしない」と言ったとき「え!?そんな人いるの!?」というような感じで驚かれることがとても多かったから。

でも実際は、結婚したくない人より、したい人のほうが多いようだ(だから「したい」のがデフォルトの人たちにとっては、まさか「したくない」人がいるなどとは思ってもいない場合があるようだ)、というのをずっと後になってから知った。それは私にとっては、とても衝撃的なことだった。

そんなに結婚したくない人よりしたい人のほうが多いのか、と思いびっくりしたのだが、よく考えたら、確かにそうなるのが自然なことなのだと思う。なぜなら、そうでないと人間の子孫が同じくらいの数を保った状態で続いていかないから。もし、結婚したくないという人が半分もいたら、残りの結婚したいと思う半分のなかのどのくらいかが子孫を残し、その子孫もまた半分くらいは結婚したくないのだとしたら、基本的には残りの半分のうちの子供を残したい人たちからしか次の世代が残っていかないことになるので、急速に人が減っていってしまう。もちろん、結婚をせずに子孫を残す場合もあるけれど、基本的には結婚して子孫を残す場合のほうが多いから。

だから、結婚したくない人より、結婚したい人のほうが圧倒的に多いのは当然のことなのだろう。基本的に結婚したい(または結婚した)タイプの人間の子孫が今の世の中に大勢いるわけだから、その人たちの多くはそういう遺伝子を持っているはずで、だからその子孫も結婚する意思を持っている人たちが大半になる、ということなのだと思う。結婚したくない人、しない人の遺伝子は、子孫を残さない場合が多いため残っていかないから。

だから、今残っている我々のなかで、結婚する意思のない人というのは、少数派になるのだろう。だから時々、多数派の結婚したい人のなかで、結婚したいという人しか見たことがないという人は、まさか結婚したくない人などいるとは思っておらず、結婚する意思のない人を見たときに「そんな人がいるのか!」と驚くのだと思う。

今は、わりと結婚しない人、したくない人というのが当たり前になって、「まさか結婚したくない人がいるなんて!」とか「結婚したくない人なんているはずがない!」と思い込んでいるような人は、かなり減ったのではないかと思う。

でも、まだ時々、そういう人もいるようだ。最近は直接そういう人を見かけることはないが、ネットでは見たことがある。私も昔、結婚したい人としたくない人の割合が半々くらいだろうと漠然と思っていたときは、まさか結婚したい人がほとんどだなんて思わなくてびっくり仰天したから、逆のほうでびっくりする人を咎める資格はないと思う。ただ、知らなかったならびっくりするのは分かるけれど、自分の文化と違う文化を持っている人がいたからと言って、「そんな人はいるはずがない」「結婚したくない人などいるはずがない」と思ってしまうのは間違いだから、そのような認識は改めたほうが良いと思う。

それは、「お互いのデフォルトが違う」というだけだから。「したい」が当たり前の人にとっては、「したくない」人というのは存在するはずがない、ということになるかもしれないけれど、「したくない」が当たり前の人たちにとっては「したい」と思う人のほうがびっくりで、「そんな人いるの!?」ということになってもおかしくないから。



それから、なぜ結婚したい人が大半の社会のなかでも結婚したくない人たちがいるのか、その理由もあると思う。私が思い付く限りでは、少なくとも二つ理由があって、結婚したくない人の発生は必然的に起きるものだと思う。

一つはよく言われることだけれど、ある程度、世の中が豊かになってくると、生き甲斐や生きるうえでの楽しみや生き方の選択肢が増えて、幸せな人生を送るうえで必ずしも家庭を築くことは必須ではなくなってくるから、ということ。先進国で世の中が物質的に既に豊かな状態になっていて、特に必死で社会を発展させなければならないような状態でないのなら、もう社会を豊かにするために生きるという必要性がなくなり、より個人の豊かさや個人的な幸福や個人的な目的のために生きる人が当然増える。そうすると、それまでの社会のなかで当たり前とされてきたテンプレートの生き方にそぐわない生き方をする人たちも出てくる。そのうちの一つが、「結婚しない人たち」である場合がある。自分の場合はちょっとこの理由からではないようにも思うけれど、よく言われる理由としてはこういうのがあると思う。これは社会が豊かになれば必然的に起きることだと思う。

もう一つ私が思うのは、ある程度、人間が繁栄した地域のなかでは、皆が皆、結婚して家庭を持ちたいと思う人だと、子孫が多く残りすぎてしまい、その土地の規模に対して人間の数が増えすぎてしまうから、ということ。ある程度まで人が増えたら、それ以上にならないように自然の摂理によって必然的に減るようになるのではないか。そのためには、結婚したくない人たちが必要だ。もちろん、結婚した人たちが皆、子孫を誕生させるわけではないので、結婚したい人が多いからといってそれが直接、人間が増えることの原因にはならない。だけれど、たいていは結婚したいと思う人たちのなかに子孫を残したい人がいるので、結婚したくないという人のほうが子孫を残す確率が低いから。

日本は人口が減少していて少子化が問題になっているけれど、その前は産業革命以降、急速に人口が増えたわけで、明治維新のときには3千3百3十万人くらいだったのが2004年には1億2千7百8十4万人にもなった。そのまま増えたら国土に対してもう人が多くなりすぎるから減っていくのは自然なことと思う。もちろん自然なことだと言ってもそれに伴う問題も大きいのは分かるけれど、増えたなら減ること自体はごく自然なことで、減るに当たって結婚したくない人たちが増加するのも当たり前のことだと思う。少なくとも世界人口に関しては、この数十年で爆発的に増えたので、このままでは地球の資源も環境も持たない。そんな状況のなかでは、これ以上、人間を繁栄させていくことに興味のない人や、むしろ人間を誕生させることに危機感を持つ人が出るのは当然だ。それに伴い、家庭を持とうとは思わない人、結婚を望まない人も増えるのは自然なことだろう。

だから、結婚だけだなく出産に関しても望まない人が増えるのは自然なことだ。ふつうに考えたら、生き物としては次の世代を残すのが自然なことで、人間も生物として子孫を誕生させることが使命であると考える人もいる。だから「人間は皆、結婚して次の世代となる子孫を誕生させなくてはならない、少なくともそれを目指さなくてはならない」と考える人たちもいるようだ。

でもそれは、そういう自然な営みをしていても大丈夫な状態である場合に限った話だ。今は人間がものすごく増えているので、このまま増えていったのでは地球環境が持たない。生き物として子孫を残すこと自体は自然なことだとしても、その自然なことを皆が皆そのまま続けてしまったのでは自然環境の側がもう持たない、という状況に至っては、むしろ「子孫を誕生させないことが使命」「子孫を誕生させないのが責任」だと思う人間も出てきて当然なのだ。

子孫を繁栄させるのは生物として自然なことだと言っても、その自然なことをそのまま続けたのでは人間という種全体として安全に生存できる状態が保てなくなるという状況になったら、その発想を変えなくてはならない。今はそういう状況になっている。

だから、今の地球上で結婚したくない人や子孫繁栄を望まない人が出てくるのはごく自然なことで、必然的に起きていることだと思う。もし「すべての人が結婚するべきだ」とか「結婚したいと思うべきだ」、または「みんな結婚したいはずだ。結婚したくない人なんているはずがない」と思っている人がいるのなら、ここに挙げたような世の中の変遷、つまり社会が貧しい状態から豊かになる流れと、それに伴い人口が増えてから減る流れ、もしくは増えすぎて持たなるという問題を想像してみると良いのではないかと思う。

「とにかく結婚し子孫を増やすことが大切だ」「皆が結婚し家庭を持つべきなのだ」という価値観は、20世紀には必要だったのだと思う。これから高度に成長しなければならないという社会のなかでは、とにかく生産人口を増やしてバンバン経済を発展させて社会を豊かにしていかなくてはならないから。そのためには、人々に「結婚して子孫を誕生させることがとても大切だ、そうしなければならないのだ!」という価値観を持っていてもらわないといけない、ということになる。皆がそれぞれの価値観で家庭を持つか持たないかを選ぶのではなく、もう一律で皆に同じ価値観を持っていてもらったほうが良い、とにかく全員が結婚したほうが良いということにしておいたほうが良い、ということになる。

でも今はそういう時代ではない。ある程度もう社会が成長していて、むしろ成長のために犠牲にしてきたことのツケが回ってきているところ。成長、繁栄のために資源を大量に使ったり環境を汚染したり自然界に還らないものを大量生産してきたことなどのツケが。これ以上、更なる豊かさや便利さを求め、人間の願望を叶えることだけに走ったのではこれまで通りの社会は維持できなくなる。そういう時代にあっては、むしろ成長とは逆のことに価値を感じる人、つまり「このままで良い」とか、「今のままで十分だ」と思う人も出てくるのが当然だ。繁栄するだけでなく、今の状態を持続させることを重んじる必要があるから。

そういう流れのなかで、結婚して子孫を繁栄させることにあまり興味がない人、他のことに価値を感じる人たちが一定の割合で出てくるのは自然なことだ。

べつに結婚や子孫の誕生を望む人たちが、イコール成長や繁栄を望む人たちということでもないと思うけれど、結婚や子孫の誕生はどちらかというと繁栄に向かうほうのことだから。社会が発展していくときにより必要になることだから。

「社会を成長させる」、「人類を繁栄させる」、そうして「人間が人間の思い通りに自然界を制御し、便利で豊かな生活を手に入れる」、そういう20世紀的な発想だけでは社会を持続させることができなくなってしまった今、いつまでもその発想が当たり前という意識のままでいては時代の変化を乗り越えられない。「とにかく誰もが結婚をする又はしたいのが当たり前で、子孫も誕生させたほうが良いに決まっている」という発想が当たり前でも問題なかった時代は、もうとっくに終わっていると思う。

そういう時代にあっては、「今の状態で満足している」、「最小限のものだけでいいと感じる」、「身近なところに幸せを感じる」、「今あるものの範囲でできることを考える」、「一人でいることに価値を感じる」、「経済的な豊かさや成長よりも、個人の小さな楽しみやちょっとした心の充足から幸せを感じる」、そういう人たちも自然と出てくる。

べつにここに挙げた理由からではなく別の理由で結婚を選ばない人ももちろんいるだろうけれど、いずれにしても皆、それぞれの価値観でそれぞれの生き方を探求し、今までは皆が共通に持っていたと思われていた価値観は共通ではなくなり、それも色々な価値観のうちの一つ、選択肢のうちの一つと化していく。それが自然なことだと思う。

このことに限らず、何か今まで当たり前だった価値観からすると外れている人たちが現れてきたときは、なぜそのような人たちが出てくるのか理由を考える必要があると思う。もしかすると、それまでの社会が持っていた何らかの価値観や風潮が、そのままでは上手くいかなくなっていることが原因で、それにそぐわない人たちが登場している可能性があるから。

最後に付け加えたいのだが、私は決して子孫を残す人を否定したいとは思わない。もし人間の全員が私と同じように結婚せず子孫も残さない人であるならば、すぐに人間は滅亡することになるので、それが良いことだとも思わないから。だから、ある程度は子孫を残す人間も必要だと思う。

ただ、私が言いたいのは、人間の全員が子孫を残さなければならない又は残すことを目指さなくてはならないとか、全員が結婚したいと思うのが当たり前だとか、そういう価値観を常識だと考えるのは今の時代にはそぐわないということ。それは今の地球の状況にそぐわないということ。その考え方だけではこの先の人間はやっていけないということ。


2020年12月 間アイ



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